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ロリータファッション持論
ベルベットのドレスに憧れますね。
初めてドレスを着た記憶は小学校低学年、親戚のお姉さんがピアノの発表会で着た紺色のたぶん別珍のワンピース。貝のボタンに白いレース襟。
お下がりを頂いて嬉しくて。用もないのにクローゼットから出してこっそり着ては鏡の前でターンをした。ずっとボーイッシュだった子供時代の特別な思い出。
ロリータ服について考える時、いつも子供の頃を思う。
クラスの女の子の長い髪や編み込み、揃った前髪に憧れていた。みんなは自分より小柄で可愛らしくて、誰かに守られていていいなぁと思っていた。
お勉強も得意で背も高くて、いじめっ子も自力で成敗できていたし何も困ってはいなかったけれど、自覚していない漠然とした憧れがあったのだと思う。
そして色々あって(色々についてはまた別のお話)現在。
なんだか拗れているのだけど、「一般的なかわいい女の子」である事はそれ程自分にとっての価値は無くて、それよりも「(一般的に価値があるとされる)かわいい女の子をも黙らせる何か」に非常に魅力を感じている。
見た目だけじゃない思想や思考やそこから醸成される存在感、個性、特別性。そういった部分にこそ本当の自分自身、存在意義みたいなものを見出せるようになるのではないかと考えている。自他共に。
かわいい女の子でいる事と美しくある事は似て非なるものだと思っていて、一般的に言われるかわいい女の子像の貧弱さ、脆弱さや幼さ。当たり前に庇護対象であるかのような肩書は自身には全くそぐわない。ただ気高く孤高で強く、瓦礫を踏んで進む足跡に花が咲くような美しさを纏いたいと願う。
だから、という接続詞が最適であるかは分からないけれど、ロリータファッションに対しての個人的な拘りとして。
少女性への朧気な憧れと言うよりも、リボンやフリルやレースの持つ純粋な物質的な充足感、身につけた時の高揚感。頭から手先足先まで作り上げた世界観を背負って現世を征くという、本当に特別で得難い感覚を最大の魅力と捉えて体現していたいと思う。それは誰の為でもなく紛れもなく自分の為に。
美しいお洋服を悲しませない人間でありたい。
繊細で過剰な装飾をされたお洋服こそ、決して傷つくことのない永遠の少女そのものなのかも知れない。
パニエいっぱいのスカートを翻して、ロッキンホースを鳴らして歩こう。コンバースだってドクターマーチンだって、好きな服を着てるだけでどこへだって行ける。
なんて軽やかな布量の多い幸福。