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土下座したけど意味無かった話

先日、人生で初めて本気の土下座をした。
泣きながらだった。効果は無かった。

弱い人間が語るネガティブな話はある種の暴力性をどうしてもはらむと私は認識していて、そういう意味で優しい知人たちの心配を必要以上に煽りたくないので具体的な出来事の記述は避ける。
(でも隠したい出来事って訳でもないので気になる人は会った時にでもお話せがんでね)


私は不出来な人間なもので、人の当たり前にうまく納得がいかなかったり、自分の心身を適合させられなかったりする。子供の頃から現在に至るまで度々そういうことがある。
自分とは違う人間と社会の中で共存するというのは、なにも迎合するばかりじゃなく、違和をコミュニケーションでうまく調整することも含まれていると思うが、そのコミュニケーションもうまく出来ない。

その結果、過去に舞台での関わりやバイト先で決別が起きたことも無くは無い。また、心身がやられて通院している現状もその結果の一つだと思う。そういった前例がある以上、私は自分のその事実から逃げられないし受け止めて生きていかないといけない。
いや、そんな義務めいた言い分をするつもりはなくて、自分自身の認識としては諦めて認めるしかないな~くらいの軽い気持ちだ。
諦めはもう結構前からついている。

なんの自慢にもならないが自分の違和感に悩んでるのは物心がついてからずっとだし年数でいうと20年以上になる。
もちろん自分ひとりで閉鎖的に悩んできた訳じゃなく話をする友達や人生の先輩だって居たし専門家への相談や通院の手段もとっている。
逆に、そこまでして簡単に片付かないのだから、もう半ば自動的に諦めがつくのも無理ないだろうよ、と思う。

ただ、諦めてくれない人たちがいた。
その人たちに土下座をした。
自分の不出来を心から詫びたつもりだった。

その人たちは私が自分を諦めていることをどうしても許せないようだった。
それに対して私は諦めません、精進しますなんて返事は到底出来ない。結論としては私は決別しか選べなかった。
それは私の能力とか精神力に依る部分が大きいし、相手との関係性や相性の問題も一部ある。
たぶん今のところの人生で一番大きい決別だろうなと思う。

恐らく私がこういう公の場にこういう文章を公開することも、吐き気を催すほど反吐が出るほど嫌がるだろうと思うけど、まぁ気付かれてから対処すればいいか、くらいの気持ちでいる。相手への思いやりがないのだ私は。

自分の心の安全を整備するために事が起きてからすぐ一連の出来事を何人かに話した。その時は具体的な単語も出して詳細も含めて話した。

電話する約束をしていた日の前日にたまたま友人が「生き恥」についての話をSNSに書いていた。それでやっていくと決めた以上、恥だろうと晒していくしかないというような内容だった。
電話の時に「こういう状況だったからシンクロしたよ」的なことを伝えたら変に否定せず「やっていくしかないよな」という一緒に先を見据えるような物言いをしてくれたのが個人的には嬉しかった。状況とかどういう出来事に対してそういう気持ちを持ってるのかは全然違うし実務として一緒に生きていく訳ではないけど。

諦めがついただけで、それが格好いいと勘違いしてる訳じゃないし、そういう自分を恥じる気持ちはまだある。
まぁそんなのでも、死んだりするよりは生きてるほうがマシなんだなとは思えてるし、異常に私にキツい人たちがいる一方、初孫か?というくらい愛情を注いでくれる人たちも実際いるので、私は自分にとって生きやすい場所でやりやすいように生き延びさせてもらおうと思う。

ご期待に沿えず申し訳ありませんでした、ということで。
私は非人道的な社会不適合者として自分の置かれた環境の中で楽しくなんとか生き残ります。

さよならの語源は「左様ならば」であるというのを実感する。

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