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千子村正 蜻蛉切 双騎出陣 ~万の華うつす鏡~ 感想レポ ①

はじめに


※舞台・ゲーム等各コンテンツのネタバレ注意
※超個人解釈注意
※千子村正の話多め
※村正を語る上で宗教的な話(法華経)多し
※中の人が建築オタク故、舞台装置の言及有り

これはタイトルにある村正双騎の舞台について、気づいたこと等を自分なりにまとめた備忘録です。
また、中の人は最近村正派(特に千子村正)に落ちた新参者ですので、若輩者の戯言と踏まえた上でそれでも尚読んでくださるのであれば、先へお進みくださいませ。

以後、千子村正は「村正」、蜻蛉切は「蜻蛉切」と表記します。

また、ここからは私の超独断超願望解釈です。
乱文、乱心増えます故、ご承知くださいますよう、何卒よろしくお願いいたします。

前談

この舞台は、刀ミュの中では「心覚型」と皆さんがおっしゃっている通り、何度か見返して読み解く必要のある作品だと感じました。
具体的な時代や事件等が出て来ず、村正の精神世界を描写していると解釈されるシーンが多いため、具体性がないのです。
それこそがこの舞台の面白いところであり、要点を押さえて見れば脚本が意図する内容は十分に理解できるものの、その間の余白に情報が多く考察の余地がふんだんに含まれている、皆さんの言葉を借りるのであれば「現代アート」的な作品となっています。

今回刀ミュでは初めての、演者が演出をするという、演じる人の解釈がより表に出やすい舞台となっていました。村正役の太田基裕さん、蜻蛉切役のspiさんはインタビューで下記のように述べています。

(前略)視点がマクロからぎゅっとミクロになってきている。互いにより深く感じながら演じる、という感じかな(太田)
(中略)だからこの2振りは一緒にいるんだなとか、だからお互いを認識し合っている中で個体として強く在るんだなとか……(中略)(spi)
そうだね。こういう“ファミリー”なんだっていう感じかな(笑)(太田)
そうそう。しかもそれを理屈じゃない方法で、「なんかわかる」みたいに理解させる。観終わった後に、理屈じゃない何かが、後味よく残るんじゃないかなと思っています(spi)

CUT12月号より
https://rockinon.com/blog/cut/207967

2振りそれぞれが個体としてまずそれぞれの歴史、経験、因縁、感情を背負っている。
その中で村正派としての繋がりを2振りは大事にして過ごし、理屈では説明しきれない深い絆がある。
そのような解釈が浮かびました。
これは太田さんもおっしゃっている通り、まさしく“家族”の絆と言えると思います。
“家族”とはなんでしょうか。それぞれ個人の考えや生き方を大切にして尊重し合い、でもお互い何かあったら支えになったり、相手の少しの異変に気づき心配をしたり、一緒に過ごす時間を共有し安らぐこともあれば、時に相手に自分を理解して欲しいあまりに、家族にしか言えないきつい言葉や態度で当たってしまうこともある。この人なら許してくれるだろうという甘えから、相手に深く踏み込んで喧嘩をしてしまうこともある。
そんな、お互いの境界線が曖昧になってしまう関係が家族なのではないでしょうか。
演者が、村正派の2振りは「個々を認め合う家族である」と解釈してこの舞台を作り上げたのだと思うと、より深く彼らのことを理解できるようになるのではと思いました。

また、今回の演出には仏教的表現が多々見られます。
これは村正の戦闘ボイスの「Saddharmapuṇḍarīka‐sūtra(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)」から、また「千子村正(今回は村正作の刀の集合体として解釈)」と呼ばれている刀の一つである「妙法村正(正式名称:村正 妙法蓮華経)」から来ていると思うのですが、今一度この台詞と宗教について言及しておきたいと思います。
「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」とは、サンスクリット語で「法華経」という意味です。「妙法蓮華経」ともいいます。仏教の経典の一つですね。「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」という台詞は日本人なら誰しも一度、どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。
仏教には「般若心経」「華厳経」「維摩経」等の様々な経典があり、その教えは多岐に渡りますが、あえて分類するとすれば、「法華経」は小乗仏教と大乗仏教の大きな括りの中での大乗仏教にあたります。修行したもの達だけが救われるのが小乗仏教だとすれば、すべてのものが救われるのが大乗仏教です。
また、「法華経」は日本国内で一番流布している経典でもあり、様々な経典の中で一番日本人に分かりやすく、日本人の精神性に近い教えなのかもしれません。だからこそ、日本人が作り日本人が使う日本で生まれた日本刀である村正にも縁があるのだと思います。
実際、「妙法村正」を作刀したと言われる右衛門尉村正さんは日蓮宗(「法華経」を主な経典としている宗派)の信徒であったとされています。Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E6%9D%91%E6%AD%A3

では「法華経」の教え、精神性とはなんでしょう。私の独自解釈ですが、数多ある仏教の経典の中でも「法華経」の一番の魅力は、「すべての人を救うこと」「他を否定しない」にあると思います。

しかしその前に、仏教の前提の教えを理解しておくとより解像度が上がると思います。
仏教は、「無常を悟る」「修行に励む」この二つが大きな軸になっています。
人の一生は苦であり、人の魂は輪廻転生を繰り返し、終わりなく苦しみ続けるものだけれど、その苦しみの連鎖から抜け出すことを解脱といい、苦しみから解放されることを目指すのが仏教です。
無常とは、この世の中の一切のものは常に同じものはなく、生じたり変化したり無くなったりして、一定にはならないことをいい、「法華経」の解釈で言うならば、「春が来れば花が咲き、秋になれば木は紅葉する、その自然な有様」のことです。人は様々な色眼鏡をつけ物事を見ており、その色眼鏡は様々な人々の考えや噂、経験等から生まれているけれど、それを取り払いありのままの真実を見て受け入れましょうと説く、これが「法華経」なのです。
さて、舞台を観た方ならお気づきではないでしょうか。そうです、最初の丸窓と四角窓のシーンに重なるものがありますね。
あの窓には元ネタのお寺があるのですが、それについてはまた後程述べたいと思います。

また、「修行に励む」というのは、人は煩悩があるから苦しめられ、解脱をするためにはその煩悩を消しさらなければならず、その手段の一つが修行だということです。修行し、ありのままの世界(無常)を知ったとき、人は苦しみから解き放たれる。
刀剣乱舞ONLINE の中でも刀剣男士は極になるために修行の旅に出ますが、修行中に村正から送られてくる手紙の中で

「ワタシも、世間の言うような妖刀にはなるべきではないのでショウね。真実は私自身……」

という一文があります。
修行に行く前は人々の噂、妖刀伝説等の物語に縛られ苦しみを抱えていた。いや、修行後もそれは断ち切れずそこにあるのかもしれませんが。
しかし、旅の先でかつての自分の主に会い、自分と同じく噂に振り回された人の人生を覗き、噂と真実の違いを目の当たりにする。そして妖刀という噂を捨て、自分自身を見つめ直したとき見えてきた真実は、他の何者でもなく「私自身」だった。
修行から帰ってきたら村正は苦しみから解き放たれたのでしょうか。少なくとも、村正は修行を経て真実に気づき、妖刀というしがらみから抜け出し「千子村正」という自分を得ることができたのは確かです。
ありのままの真実を見つけることができた村正の修行は「法華経」の教えによく似ていると思いませんか? 思い込みすぎかもしれませんが……。

さて、本筋に戻りましょう。「法華経」の魅力、「すべての人を救うこと」「他を否定しない」についてです。

「すべての人を救うこと」とは、大乗仏教の大切な教えの一つです。生まれてから戒律を守ってきた清廉潔白な男性だけが救われるのではなく、破戒(戒律を破ること)した人でも、悪人でも女性でも子供でもどんな人でも信心すれば救われると説いたのが「法華経」です。日蓮宗では「南無妙法蓮華経(法華経を信仰します)」と唱えるだけで救われると説いていますね。
更に、仏になるには自分を律し修行をするだけでは足らず、苦しんでいる人々を見て悲しみ救おうとする心を持つ必要があるといいます。これを「大悲心」と呼びます。ポイントは悲しむ心、にあると思うのです。
敵を切るとき「法華経」を唱える村正は、どんな思いで唱えているのでしょう。きっと、斬る度に殺す度に、相手に対し、苦しみから解放されてほしいと、どうか成仏してほしいと願っているのではないでしょうか。だとしたら、武器として人を斬る刀という存在としてこの世に生まれた村正は、自分の業を常に見つめていることになりませんか。それがどんなに辛いことか。なんて真面目で、なんて慈悲深い心を持った刀なんでしょう。刀として生まれていなかったなら、もっと幸せな彼らが見られたのでしょうか、いや、それでは村正ではありませんね。石切丸もそうですが、他者の幸せを願う刀こそ自分の業に苦しめられるのは一つの因縁なのでしょう。

二つ目の「他を否定しない」についてですが、「法華経」は仏教の様々な経典、考えがある中で、そのどれもを間違っている等と否定してはいません。他を否定しないという精神性があります。人々は、その時代、その場所、その他色んな原因により誰一人として同じ人はおらず、それぞれの性分があるので、それに合わせて教え方も変えなければ響かない。だから色々な教えがあるけれども、伝えたいことはみな同じなのだと。誰一人例外にはせず救いたいという仏の考え、またその他経典を否定せずみんな違ってみんないいのだという個の尊重をする考えは現代に通じるものがあると思います。
村正が他の刀剣男士達に対してやたら構ったり、放っておけずに見守ったりする(これは刀ミュ本丸が特にそうなのかもしれませんが)のは、この精神からきていたりするのかな、と思いました。

さて、少し話は変わりますが「法華経」の中で少し面白いと感じることがあったので、ついでに話します。
「法華経」は、人々が住む世界は穢れており苦しみは泥の中でもがくようなもので、そこから人々を救わなければならないというのですが、ではその泥の世ごと綺麗にしてしまえばいいのでは、浄化するのが仏なのではと思いませんか。
しかし、仏はその泥のような世界があるからこそ清らかなものが際立って見える、美しいものが美しく見える、というのです。
これは「法華経」の原題である「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」という名前からもよく分かります。「サッダルマ」は正しい教えのこと、「妙法」や「正法」と訳します。「プンダリーカ」は花の蓮の一種で「白蓮」のこと。つまり「法華経」とは「白蓮のように美しく清らかな正しき教え」という意味になります。
白蓮は泥の中に埋もれている状態から、芽を出し、育つと、水面で泥が少しも付いていない美しい花を咲かせます。美しいもの、正しきことは汚れの中から生まれてくるという教えです。
世の中が穢れているのは当たり前のことであり、そうだからこそ美しいものが生まれ、憧れ、そこを目指すのだという考え方は、戦いの絶えない世を過ごし、安寧の世を迎えてからも徳川に仇なす刀だと言われてきた村正にとって、自分が過ごしてきた環境を否定されずそこから目指すものがあるのだと、千子村正として生きていく目的を生み出してくれたものなのではないかと、そう思うのです。まあ、個人の考えです。

さて、この後各シーンについて書き綴る予定でしたが、あまりにも前段で余計なことを書きすぎたためにキモオタ早口長文になってしまいました。
また、書き綴ったものを近いうちに上げられればと思っています。

駄文、長文失礼いたしました。

「こういう考えもあるのでは!」「小ネタここにあるよ!」というご意見がありましたら是非コメント欄で教えていただければ幸いです。

ここまで読んでいただきありがとうございました。
それではまた。

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