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【OHASHIの原点。人の縁が創り出す“絆”の器】すずり石プレートのご紹介

こちらの記事は以前、公式サイトで掲載された内容を転載したものとなります。
大橋洋食器コラム

『すずり石プレート』のご紹介

今から2〜3億年前、恐竜が栄えるさらに以前の時代である『古代ペルム紀』の土が圧縮されて出来た「粘板岩(ねんばんがん)」。

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剥がれるように薄く割れる性質を持つことから、古くから屋根や床などの建材として利用されてきました。(いわゆる「スレート」のこと。)

採掘地の土の成分によって色が異なり、グレーのような色から黄色っぽいものまで実に様々です。

日本でも古くから採れ、主に書道用硯(すずり)の素材として珍重されてきました。

中でも特に宮城県雄勝町(おがつちょう)産のものはダークグレー〜美しい純黒色であることから、「玄昌石(げんしょうせき)」もしくは「雄勝石(おがついし)」としてよく知られています。古くは室町時代の古文書の中で既に硯の産地として認知されている表記が見られるそうで、その歴史の深さを感じます。

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近代でも東京駅の駅舎の屋根材などに見ることが出来ます。

今から15年ほど前、そんな美しい雄勝石を食器に出来ないかと模索したのが、先々代の社長である大橋厚男でした。

当時はまだ産地の食器を買い付けて販売する卸売業態だった時代に、会社や業界の行く先を見据え、より主体的に商品開発に携われる「企画販売業態」へのシフトを図る一環として始めた、当時としては非常にチャレンジングな企画でした。

現地の職人たちと打ち合わせや試作のやりとりを繰り返し、5年以上の歳月を掛けて開発。今にも見られる「手が入るように台を付ける」「食品衛生基準を満たすコーティングを施す」などの仕様は、この時期に培ったノウハウが生かされています。

本格的な生産体制に向い、これからという時に、その日はやってきました。

2011年3月11日、東日本大震災。

震源地である東北沖に面する宮城県の中でも沿岸部に位置する石巻市にある雄勝町の被害は、甚大などという言葉ではとても言い表せないものでした。

出来上がった商品、加工前の原石、大型の機械、そして何より職人の命さえも、あの黒い波が奪っていったのです。

職人たちと連絡が取れない日が続く一方で、先頭に立って主導してきた大橋厚男社長の身にも病魔の影が忍び寄ります。

営業マンとして、社長として、時に夜通し仕事をすることすらあったというトップランナーとしての蓄積疲労に、震災による心労が重なったのかもしれません。

店舗の什器も自分で作ってしまうほどアクティブだった大橋社長は、ついに入院を余儀なくされる状況にまで追い込まれました。

それでも彼は、後にその命を奪うことになる病の想像を絶する痛みの中にあっても、なお職人たちの無事を信じ続け、病床でデザイン画に筆を走らせたのでした。

職人たちと連絡が着いたのは震災から半年ほど経った頃のこと。

連絡手段もない中、人伝いに無事だったと知ることができ、何とかコンタクトを取れたのです。

曰く、首まで水に浸かる絶望的な状況の中、命からがら避難することが出来たとのことでした。ただ、中には犠牲になってしまった職人の方もおられたとこの時に知らされました。

制作の再開を目指す職人たちの熱意と大橋社長の思いもあって、私たちは『すずり石プレート』の生産再開に向けて動き出しました。

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資材は全て泥を被り、工場も共同の仮設設備からのスタートとなりましたが、少しずつ作業を再開、商品として売り出せるほどになりました。

出来た商品の名前は、職人たちと大橋社長の思い、そして雄勝と新潟の縁が織りなした「切っても切り離せない絆」の器であることに由来して、「すずり石プレート『絆』」としました。

そんな稀有な経緯も手伝って、2013年には「グッドデザイン賞」を受賞しました。

その知らせを待たずして旅立った大橋社長の思いは、今なお私たちの商品作りの礎として深く刻まれています。

サブ1【すずり石イメージカット1】MK3_9276

物を売ること=それを作った人の背景や思いを伝えること。

『絆』シリーズは、そんなOHASHIブランドの原点となった特別な器なのです。