(上) バックパッカー料理人 第1便
血は争えない...
「旅」...
約40年以上も前に、バックパッカーしていたというのだから。
有名な深夜特急よりも前の話だ
まだ、海外旅行も一般的じゃなく、ネットもない本当に未知の世界が広がっていた海の向こうの世界。
国によっては個人旅行も認められていなかった。
そんな時代に、母親は横浜から船で津軽海峡を渡り、旧ソ連をシベリア鉄道で横断、フィンランド、デンマークと北欧そして、ベルギーやルクセンブルグ、オランダ、ポルトガルや西ドイツ・東ドイツと単身バックパッカーとして歩き回り、今でも話を聞いていると、今では経験のできない面白い事ばかりだ。
そんな中、現在140数ヶ国を旅している、当時同じようにバックパッカーで世界を旅して周っていた父親と母親はスペインのアトーチャ駅で出会った。
福岡出身の父親と、宮城県の赤井という仙石線沿いの小さな田舎町の農家さんから世界へ飛び出した母親。
そんな僕も気付けば、何の抵抗も無く海を、空を渡っている。
15歳の春休みだったかな...
初めて1人旅をしたのは。
毎月850円のお小遣いを僕は、確かプレステ2を買うために貯めていたはずだった。
たまたまテレビで「アレ」を眼にするまでは。
「はっさく饅頭」
広島の因島に、八朔という柑橘が丸ごと入った饅頭があると...
僕は、貯めていた小遣いで躊躇わず青春18切符と時刻表を手に入れた。
こんなに1人でワクワクしたのは初めてだった。
行く前から、既に道中を楽しんでいる自分を妄想し盛り上がっていた。
温泉に入りたいなぁ、お好み焼きも食べたいっと色々計画したのを今も手に取るように覚えている。
博多駅から出発し、大分県の別府へ行き足湯、温泉、砂風呂と楽しみ。
15歳のピチピチの肌を弾けんばかりに磨き(笑)
広島へ入り、因島で目当てのはっさく饅頭を頬張った後は、ヒッチハイクも経験した。
その後、三ノ宮そして、京都へ行き帰福へ着くのだが、京都では夜1人で先斗町へと乗り出した。
当時の僕は、先斗町がどんな所かも知らなかったが、無類の路地好きである僕は、先斗町の小料理屋さんのカウンターに座り、まだ肌寒い中1人で豆乳鍋を頂いた。
たしか、僕はカウンターの真ん中に座っており、端に老夫婦が座っておられた。
御二人は、噺家の家元とのことで、1人で豆乳鍋を食べている僕を気に入って下さり、美味しいお酒を御馳走になったのを今も忘れない(笑)。
旅というのは、僕にとって最大のリラックスでありインスピレーションと出逢いの宝庫。
Alineaは、シカゴの最低賃金である時給$8.25の給与だったが、日本と違い残業手当はちゃんとしていたため、十分な金額を貯めていた。(労働時間を考えてはいけない)。
家賃とレッドブル以外にほぼ使っていなかったお金で、僕はヨーロッパの憧れのレストランを巡り、働きながらバックパッカーすることにしたのだった...
To be continued...
料理人である自分は料理でしかお返しできません。 最高のお店 空間 料理のために宜しくお願い致します!