アメリカでフレアバーテンダーの技術を学ぶ話 ②
2000年の秋、フロリダで世界大会を見た後にフレアバーテンダーのスクールに入った私はスクールの5日間が過ぎても通い続け、ボトルを投げ続けた。
当初の予定通り1ヶ月後にテキサスに行き、別のフレアの大会を見に行ったのだが大会当日だというのに店は静かだった。聞くと、大会は1ヶ月前に終わっていた。そう、私の英語力はこんなもんである。
フロリダに帰ってそのまま日本に帰るはずだった。が、帰りのチケットを捨てアメリカに残ることにした。というのもその頃、凄い勢いで私は成長していたからだ。
世界大会を間近で見た私は大会で見た技ばかりスクールで練習していた。
当時ショーテンダーズはスクール以外にもバーのコンサルティングやメーカーと共同の商品開発、プロモーションなどいろんな事業をしていた。スタッフも数多く、みんな大会で良い成績を残すフレアバーテンダーだった。
彼らが昼休みに通りがかって私の練習を見ると「こんな技出来る?」と見せてくる。すると私はそればかり練習するので次の日には出来るようになっていた。「じゃあ、これは出来る?」、この繰り返しでいろんなスタッフの技をとんでもない勢いで吸収していったのだ。
今日本に帰るともったいない。
みんなも初めはこんなの出来るわけないだろうという技を次の日には出来るようになる私を見てもっともっと教えてあげようという気持ちになっていたはずだ。でなければあんなに無茶な技ばかり教えるはずはない。
また、私の根性がみんなに伝わる理由はもう一つあった。
海外で長期滞在するのはユースホステルしかないと信じていた私はスクールから一番近いユースホステルで泊まっていた。だがこの宿は近くないのである。そう、バスを乗り継ぎ片道2時間かけてスクールに通っていた。朝8時のバスに乗り10時から練習を始め、スタッフに誘われても昼ごはんも食べずに18時の最終バスギリギリまで練習をする。そして2時間かけて宿に帰る。こんな日々を過ごしてた。
根性はあったけど技術がなかった私はほとんど全ての爪と指の間がぱっくりと割れてシャワーを浴びるのも大変だったが、それでも幸せだった。でも見かねたスタッフが「うちで泊まったら?」と言ってくれた。彼は11歳の女の子と7歳の男の子を持つ若い家族だ。思いがけずにアメリカ人の家庭でのホームステイが始まった。
(続く)