noteのコンテストに挑戦
宿泊しているホテルでは、タイに居ながらにして、日本のテレビが見ることができる。土日に家にいることはないだろうか。だらだらとテレビを見て過ごす一日。土日の隔離生活はそんなだらだらした土日に家にいるような生活と同じ。これではダメだと一念発起。
コンテストへの挑戦をと思いたった。
私の勝負曲
ズバリ「希望の轍」が勝負曲だ。
何かをするときに必ず聞く曲というわけではないし、何かあるときに聞くわけではない。思い出とその時の自身の気持ち、達成感、高揚感、くやしさ、つらさ、寂しさなどいろいろな思いが詰まった曲である。
希望の轍との出会いは中学生の頃だと思う。
当時、めざましテレビでワールドキャラバンというコーナーがあった。八馬アナウンサーが世界中を旅し、手紙を渡す。そんな内容だったと思う。その時のテーマソングが「希望の轍」だった。この時、自分の中で「旅=希望の轍」そんな印象を持ったことを覚えている。
そのワールドキャラバンでどうしても忘れられない景色があった。それがナミビアという国にある「ナミブ砂漠から見た朝日」である。アプリコット色に輝く砂丘群の向こうから、砂丘よりももっと濃い橙のように輝く太陽が昇る。この景色をテレビ越しに見たときに、漠然とではあるが、いつかこの地に行って、自分の目で景色を見ようと決意をした。
時が過ぎて19歳のある日、大学の友人からタイへ遊びに行かないかと言われ二つ返事でOKし、いざタイへ。旅行期間は1カ月、荷物はバックパック1つ、当時何も知らなかったし、何も意識していなかったが、いわゆる「バックパッカー」だ。バックパッカーという言葉を知ったのは、タイに入国し、カオサンロードで知り合った人たちから聞いた。
当時、初めて個人で計画した海外旅行(航空券だけの手配の旅行)で、訪れたタイでは、見るもの、聞くもの、感じるもの何もかも全てが初めて。ユーラシア大陸を横断する人、横断してきた人、東南アジアを回る人、香港から来たという人こういった人々と出会い、話を聞き、話をし、アジア危機直後の異質な雰囲気を持つタイの空気がまじりあって、目の前に遠い昔の記憶が突然現れた。
アプリコット色の砂漠、朝日、希望の轍・・・
何故かわからないが、武者震いするような感覚になって、来年自分もやろうと決めた。成人式を終えた翌年の4月から1年間旅行しよう。
友人と二人でタイに来て1週間、2週間と経つが、タイで出会った人たちから聞いた話がどうしても頭から離れない、そこで1カ月旅行の中の最後の1週間を友人から離れ独りで旅行し、来年に備えることにした。友人から言わせればハチャメチャだっただろう。
日本に帰国してからは、毎日暇さえあればバイトをして、資金を貯めた。行先はもちろんアフリカ、ゴールはナミブ砂漠これだけは決めて2000年4月に「希望の轍」をもって、日本から旅立った。アフリカに入ったのはその2週間後で、最初の国はモロッコだった。
アフリカ旅行ではいろいろあった。つらいこと、嫌なこと、寂しさ、恐怖心、アフリカの旅行は毎日がそういった自分の感情との戦いだった。地図はあるので町があるのはわかる。が、ガイドブックはない、行く先の街にホテルがあるか、どんな人が住んでいるのか何もわからない。そんな状況を希望の轍を聞いて、自分を奮い立たせ旅行を続けた。まさに自分自身との戦いの日々。正直、航空会社でチケットを買えば、いつでも辞められる旅行。自分が決めた旅行から逃げたくない。それだけの戦いだった。
様々な感情や思いを持ちつつ、出発から約9か月後の2001年1月にとうとうナミブ砂漠に到着した。希望の轍は到着前からエンドレスリピートでバックミュージックにした。
アフリカでの事情を考えカセットテープに録画して持って行った。当然ではあるが、テープは伸び、ノイズもかなり入っていたので、中学生の時に八馬アナウンサーの後ろで流れていた希望の轍とは少し違っていた。その時は、それで十分、最高の気分だった。
ナミブ砂漠で眠れない夜を過ごし、待望の朝日。まだ朝日が昇る前の暗い時間に足の裏でアプリコット色の砂をしっかりつかみ砂丘に登った。頂上の景色は、薄い青色の空の下にそのコントラストで真っ黒に見える砂丘群。そんな景色が、私を迎え入れてくれた。
そして、砂丘の頂上で待つこと数分。徐々に東の空が明るくなり、それと共に砂丘の色が黒からアプリコット色に変わる。少しずつ色が変わっていく。太陽が昇るスピードと同じように、砂丘群にあった影がへり、砂丘全体が黒からアプリコット色へ。あっという間に砂丘の影が消えた。当然、希望の轍はリピート再生。
実は、この後のことをあまり覚えていない。ただ一つ、はっきりと覚えているのはまた来ようと決心したこと。なぜ覚えていないかは、本当にわからないが、あまり記憶にない。アフリカのつらい思い出はたくさんあるのに、ナミブ砂漠の一番最高の瞬間はあまり覚えていない。皮肉なものだなと思う。
その10年後、私はもう一度ナミブ砂漠にやってきた。
今度は、希望の轍と共に嫁さんを連れてきた。新婚旅行として嫁さんの意見なしに連れて行った。多分、乗り気ではなかったかもしれないが、ナミブ砂漠と希望の轍には、私のいろいろなものが詰まっており、是非連れてきたかった。当然、私の感動はあまり伝わらいが。。。
次チャンスがあれば、子供たちを連れていきたいと思っている。絶対に連れていくだろう。
私の勝負曲は「希望の轍」。自分が前に進むための重要な曲である。
今、タイのホテルで隔離生活を送っているが、ブログを書きながら、昔のことを思い出し、「希望の轍」聞く。これから起こるタイでの生活に対する不安をすべて吹き飛ばしてくれる。まさに勝負曲として、今このタイミングも活躍してくれている。