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表現への憧れがある

新しい年が始まると何かをはじめたくなって、その中に自分を「表現」するということがかならず浮き上がってくる。

仕事も自分の表現でもあるし、そもそも生きていること自体が表現だったりもするのだけど、私が今ここで書いている表現というのは、文章や絵や写真などのArtや創造活動における表現のことを指しています。

私の中にずっと「表現する」ことへの憧れがある。
でも美術は不得意だったし、文章が上手いわけでもないし、ピアノも幼稚園から高校卒業までやっていたから普通に弾けてはいたけど、ピアノに触れなくなってからの年数もながくなってしまって今ではいまいちうまく弾けないから再び練習することが嫌になってしまっていたり。あと写真も撮ってみたい。

最近、YOASOBIの群青を聞いているときに、そもそもYOASOBIは小説をベースとしたユニットだということを思い出して、群青の元になっているブルーピリオドというマンガを最新刊まで大人買いして一気読みしてみた。
そして、たまたまYOASOBIのAyaseさんがツイキャスをしているときにそれを聞いていて、Ayaseさんが今に至るまでの話をしているなかで、私の中にもあってずっと気になっていることに想いをめぐらせていたら、いろいろと気づくことがあった。


自分で言うのも変なのだけど、私は学生時代から器用貧乏な感じがあった。そこそこだから突き抜けたりはしなかったし、何かが得意だったり、一つのことにこだわって努力ができる子を羨ましいと思っていた。
社会人になってからはうまくいかないこともたくさんあって、向き合っていたとも思うのだけど、そこそこまでいっちゃうとそれ以上の踏ん張りがきかない。

で、それも私の一部だから、必死に努力できない私はだめだ!とかそんなレッテルを自分に貼るつもりはないのだけど、でもどこかで、私は何も積み上げられていないんじゃないかという思いがずっと心の片隅にあった。

そんなことを思いながらあらためて振り返ってみると会社員でなくなってからの私は特に仕事の分野に関してはやれることをそこそこにやっているわけではなくて、やりたいことに向けて新しいチャレンジをし続けているし、そこでは自分の小さな範囲ではできることなんて少なくて、たくさんの力も借りながら、自分でも勉強をしながら進んできているから、やっぱり何もないなんてことはないのだけど、それでもいつも片隅にその感覚があるのはなぜだろうとおもったときに気づいた。

それは、本当は興味があってやりたいとおもっていることで「うまくできないから」といって、遠ざけて向き合うことに蓋をしてきたからだと。そうか、、、そこそこできる自分じゃないと格好悪いとおもっていたのかもしれない。

絵を描くことも、文章を書くことも、ピアノを弾くことも、歌うことも、写真を撮ることも本当は興味があってやりたいし。でも、上手になりたいのに手をつけるのが怖かったり、ちょっとやってみたけど難しく感じてやめたり、ピアノなんて自分ができたことでもあったのにうまく弾けなくなっててモヤモヤするから遠ざけてた。

結局、自分がうまくできないことと向き合いたくなくて避けてきたから、いつも私の中のどこかに何も積み上げることができない自分というのを住まわせていたのだと。(今回の表現とは違うけど、英語とかもまさにそんな感じ)

自分の年齢を思うと、なんて幼いことを言っているのだろうとも思うのだけど、私がこの先もっと自由に自分を生きていくにはとても大事なことな気がしていて、だから、今からでも「表現する」ことに向き合ってみたいと思っている。

週末に絵を描くことが好きな友人とオンラインでお絵かき会をやった。もしここで、スケッチとかから始まったら私は再び絵を描くことが嫌になってしまったと思うのだけど、線をかいて、線と線が重なったスペースに色をぬっていくというお絵かき。それがすごい楽しくて、思うような表現ができたわけでもないのだけど、でも絵と話をしながら、自分の内側に耳を澄ませながら、耳を澄ませたいのにうまく聴き取れないことを感じながら、それでも絵と向き合ったらあっという間に2時間半が経っていた。

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そして絵を描いていた中で気づいたのは、私は「正しく」取り組むことへの抵抗があったんだということ。

「正しさ」には正確さとか、本来の知識とかそういうものがあるのだけど、例えば絵をかくときにはデッサンの技術とか、構図とかそいうものがあって、確かに、上手になりたいし、そのためには基礎が必要なのだけど、好きが抜け落ちてしまって、正しさをまず身につけようとしたり、正しさが勝ってしまうと続けられなくなる。好きなようにかいてみたら、もっとやりたくなる。そうすると、もっと表現ができるようになりたいから、知りたくなる。知りたいと思ったら、必要な知識を学ぶことは「正しさ」を身に着けるためではなくて、表現を広げていくために身につけたいと思う。うん、そういうことなんだよね。

もう一つ、自分の中にある「正しさ」があることにも気づいた。自分の中での表現へのイメージがあってその状態を基準としたときに自分が表現するものとのギャップを感じて正しく表現できていないと感じるということ。
私は世の中に誰かが表現してくれた何かから、自分が好きだと感じるものを「選ぶ」ことができる分、自分がそれとは程遠い表現しかできないことで自分が表現することへの抵抗を感じる。それも自分で表現をすることから遠ざけている理由になっていたことに気づいた。

さて、こんな風に自分が表現することについて振り返っていると、そういえば自分の好きを書き連ねるだけのnoteを書こうとしていたことを思い出し・・・。noteを2年も放置していて、ログインアカウントすらすぐに分からなくてどうしよう・・・と思ったけれど、なんとかたどり着くことができて、今、ここにつらつらとただ書いている。

普段、仕事で文章を書くときには、自分の中に浮かんでいる共有したいことを十分に表現できているか?それは読んでくれる人がいたときに齟齬を生まない言葉になっていて、その言葉によって創られる世界が本当に共有したい世界なのか?にとっても注意をむけて書いているから、簡単に文章を生み出せないでいる。
でも、そうやっているうちに、溜まってしまってかけないでいるものがたくさんあるのだけど、表現しながら確かめて、変化していくことを大事にしたらいい、と今日は書きながら思うことができた。

多分、普段の発信の中では勝手に「背負ってしまっている」ものがあるから発信することへのハードルが上がるんだな。

もっと軽やかに表現してみたい。下手くそでもいいじゃん。そこから変化・成長するかもしれないし、しないかもしれないけど、自分の表現をしてみることを怖がることから自由になる。表現をしたらやっぱり誰かにみてもらいたいし、いいね、って言ってもらいたい自分がいるのだけど、でも、私が自分を表現したときにそれがいいね、という人に出会えたらそれは嬉しいのであって、誰かに褒めてもらうために表現をするわけじゃない。

好きを大事にすることは私にとってとても大事だし、実際にそれを大事にしながら生きているのだけれど、自分が仕事以外の場で何かを創り出して表現をすることについてはまだ蓋をしているものがあった中で、これから蓋をあけていったらどんなことが起きるのだろう。ワクワク、そわそわするような気持ちに今はなっている。春だね。

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