カーマイケル「リベラリズムの落とし穴」

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ストークリー・カーマイケル(クワメ・ツレ)が1969年におこなったスピーチの全文を翻訳しました。


以下本文

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 アメリカの問題、特に人種の状況に関する問題について書かれるときにはいつも、そこで取り上げられている問題は黒人についてである。黒人は、過激派であるか、無責任であるか、イデオロギー的にナイーブであるものとして書かれる。

 ここで我々がやりたいのは、白人社会、そして白人社会のリベラル層の話をすることである。なぜなら、リベラリズムの落とし穴、つまりリベラルの政治的思考の落とし穴を証明したいと思っているからである。

 記事が書かれるとき、政治演説が行われるとき、あるいはある状況について分析が行われるときにはいつも、左か右か、金持ちか貧乏人か、白人か黒人かなど、どちらか一方の集団の特定の人々が二極化を引き起こしていると仮定されている。けれど実際には、さまざまな条件が二極化を引き起こし、特定の人々が触発者となって分極を加速させることができるのである。例えば、ラップ・ブラウン、あるいはヒューイ・ニュートンはアメリカ合衆国における白人に対する黒人の極化を加速させた触発者でありうる。しかし、その条件はすでにそこに存在していたのである。ジョージ・ウォレスは、アメリカにおける黒人に対する白人の極化を加速させていると見なせるけれど、やはり、条件はすでに存在しているのである。

 多くの人が知りたがっているのは、社会の白人層全体の中で、なぜ我々がリベラルを批判したいのかということである。我々が彼らを批判しなければならないのは、彼らが他の集団間の連絡役、つまり抑圧者と抑圧されている人々の間の連絡役を代表しているからである。リベラルは仲裁人になろうとするけれど、問題を解決する能力はない。リベラルは、抑圧者に、抑圧されている人々をコントロール下に置くことができること、抑圧者が違法になるのを防ぐことを約束する(この場合、違法とは暴力を意味する)。それと同時に、リベラルは、抑圧されている人々には、やがてその苦しみを和らげることができると約束する。もちろん、歴史的に見ても、これが不可能であることを我々は知っているし、我々の時代も歴史から逃れることはできないだろう。

 リベラルが最も動揺する問題は、暴力の問題である。暴力に対するリベラルの最初の反応は、暴力は間違った戦術であり、暴力は上手くいかないし、暴力は何も達成できない、と抑圧されている人々を納得させようとすることである。ヨーロッパ人は暴力を通してアメリカを奪い、暴力を通して世界で最も強力な国を確立した。暴力によって、彼らは世界で最も強力な国を維持している。暴力では何も達成できないというのは絶対に不条理である。

 今日の権力は、敵に対してどれだけの暴力を振るえるかによって定義されている。それが、ある国がどれだけ強大かを決めるやり方である。権力は、その国に住んでいる人の数でもなく、その国にある資源の量でもなく、指導者や国民の大多数の善意に基づいているわけでもない。正しくは、強大な国について語るとき、人はその国が敵に与える暴力の量について語っているのである。我々は、このことをはっきりと念頭に置かなければならない。ロシアが強大な国であるのは、何百万人ものロシア人がいるからではなく、ロシアが多大な原子力を持っているからである。それはもちろん暴力である。アメリカは無限に暴力を振るうことができるし、それがアメリカを強大な国とみなす唯一の仕方である。ベトナムは同程度の暴力をふるうことができないので、誰もベトナムを強力だとは考えない。しかし、もし権力を能力として定義するならば、私には、ベトナムの方がアメリカよりもはるかに強いように思える。しかし、我々は今日、権力と暴力を同一視するように西欧の考えに慣らされているため、常にそう考える傾向がある。抑圧されている人々が権力と暴力を同一視し始めたときを除いてであるが-そしてそれは「間違った」同一化になる。

 西洋のほとんどの社会は暴力に反対していない。抑圧者が暴力に反対しているのは、抑圧されている人々が抑圧者に対して暴力を使うことについて話しているときだけである。そして、暴力の問題は、目的を達成するための誤った手段として提起される。例えば、イギリス、フランス、アメリカが、何度も何度も自分たちのために、敵と戦うために黒人を武装させたことに目を向けよう。フランスは第二次世界大戦でセネガル人を武装させ、イギリスはもちろんアフリカや西インド諸島を武装させ、アメリカは常にアメリカに住むアフリカ人を武装させてきた。しかし、それはあくまでも敵と戦うためのものであり、暴力の問題が提起されることはない。アメリカやイギリスやフランスが暴力の問題を気にするようになるのは、自分たちの敵を殺すために武装させた人々が、自分たちに対して武器を取り上げるときだけである。例えば、今日、欧米のほとんどの国がナイジェリアかビアフラに銃を与えている。欧米諸国は、そうしたアフリカの人々が互いを殺すために使うのであれば、銃を与えることは厭わないけれど、他の白人を殺したり、他の白人の国と戦ったりするために銃を与えることは絶対にないのだ。

 抑圧者が、抑圧されている人々が解放を達成するための手段として暴力を使うことを止めようとするやり方は、暴力についての倫理的あるいは道徳的な問題を提起することである。私はここで、どのような社会における暴力も、道徳的でも倫理的でもないことを強調しておきたい。暴力は、正しいことでも間違っていることでもない。暴力を正当化する力を誰が持っているのかという単純な問題にすぎないのである。

 殺すことが正しいか、殺すことが間違っているかという問題ではない。例を挙げよう。もし私がベトナムにいたとして、白人のアメリカ人によって敵だと指示された黄色人種を30人殺せば、勲章が与えられるだろう。私は英雄になるだろう。私はアメリカの敵を殺したことになる。しかし、アメリカの敵は私の敵ではないのだ。もし私が、同朋を残虐に扱ってきた、私の敵である白人警官を30人殺したとしたら、私は処刑されることだろう。つまり、暴力を正当化する力を持っているのは誰かという単純な問題なのである。ベトナムでは、白人のアメリカによって暴力が正当化されている。ワシントンD.C.では、私の暴力は正当化されていない。なぜなら、ワシントンD.C.に住むアフリカ人には、自らの暴力を正当化する力がないからである。

 私がこの例を使ったのは、抑圧者が暴力に対して倫理的・道徳的な判断を下すことは、抑圧されている人々が抑圧者に対して銃を取る時以外には、決してないことを指摘するためだけである。抑圧者にとって、暴力は〔道徳的・倫理的問題ではなく〕単に方便であるだけなのだ。

 世界で最も裕福な国で、子どもがお腹を空かせたまま寝るのは暴力的だろうか。私はそれが暴力だと思う。しかし、そのような暴力は制度化されているため、我々の生き方の一部となってしまっている。我々は貧困を受け入れるだけでなく、それが普通だとさえ思ってしまっている。それもまた、抑圧者が自らの暴力を社会の機能の一部にしているからである。しかし、抑圧された者による暴力は破壊的になる。社会の支配者たちを混乱させるのである。そして、それが破壊的であるがゆえに、それを認識するのは非常に簡単であり、それゆえに、抑圧されている人々による暴力は実際には社会を変えようとしないすべての人々の標的となる。我々が抑圧されている人々のためにしたいことは、自分たちの心の中で暴力を正当化し始めることである。そうすれば、我々にとっては、抑圧者に対する暴力は方便になるだろう。これは非常に重要なことである。なぜなら、我々はみな、抑圧者に対して暴力が使われた時に道徳的判断の問題を受け入れるように洗脳されてきたからである。

 ベトナムで人を殺しても、私は自由の身になることが許されている。つまり合法だと公認されている。だが、それは私の心の中では正当化されていない。私は自分の心の中で正当化しなければならないし、たとえ合法であっても、私の心の中では決して正当化しないかもしれない。ベトナムから帰ってきた人の中には、殺人が合法化された場所で殺人を犯したとしても、殺人を犯したという事実に対して精神的な問題を抱えている人がたくさんいる。しかし、我々は、自分の心の中で殺人を正当化することは、それを実際に正当化することにはならないことを理解しなければならない。例えば、黒人社会を恐怖に陥れる白人警官を殺害することは、私の心の中では完全に正当化されている。しかし、もし白人実際に警官を殺したら、私は刑務所に行かなければならない。なぜなら、そのようなタイプの殺人を正当化する力をまだ持っていないからである。抑圧されている側は、現時点では違法ではあるけれど、そのような暴力を正当化しなければならない。その目標ためにはあらゆる機会に努力し続けなければならない。

 アメリカの白人リベラルの、そしておそらく世界中のリベラルの最大の問題は、彼らの主要な課題が対立を止め、闘争を止めることになっていることである。不正不満を取り除くことではなく、対立を止めることなのである。これは非常に明快であるし、我々はみな、心の中で特にこれを非常に明確にしておかなければならない。なぜなら、リベラルの主要な課題が分かれば、リベラルのために時間を無駄にしない必要性が分かるからである。リベラルの主な役割は対立を止めることである。なぜなら、リベラルは先験的に、対立が問題を解決しないということを前提としているからである。これはもちろん間違った想定である。我々はそれをちゃんと知っている。

 リベラルのこの想定が明らかに馬鹿げていることをいちいち示すのに時間を無駄にする必要はない。歴史を見れば、多くの場合、対立が多くの問題を解決してきたことがわかる。ロシア革命、キューバ革命、中国革命を見よ。多くの場合、対立を止めてしまうことは、実のところ、苦しみを長引かせることを意味するのである。

 リベラルは対立を止めることに夢中になっているので、法と秩序、というより抑圧者の法と秩序を擁護し、求めていることに大抵かれらは気づいている。対立は社会の円滑な機能を混乱させるだろうから、リベラルの政治によって、リベラルは、自分自身が抑圧されている人々よりむしろ抑圧者と政治的に団結するような位置に身を置くのである。

 リベラルが対立を止めようとする理由‐これがリベラリズムの第二の落とし穴であるが‐リベラルの役割は、彼らが言うことにかかわらず、現状を変えることではなく、実際は現状を維持することだからである。リベラルは現状から経済的安定を享受している。もし変化を求めて戦うならば、経済的安定を危険にさらすことになる。リベラルが本当に言っているのは、改革によってすべての人に正義と経済的安定をもたらしたい、どうにかして富を再分配せずに社会が拡大し続けることができるようにしたい、ということである。

 これは、リベラルの第三の落とし穴につながっている。リベラルは誰かを疎外することを恐れているため、明確な代替案を提示することができないのである。

 ニクソン、ウォレス、ハンフリーの間の過去のアメリカの大統領選挙を見よ。ニクソンとハンフリーは、自分たちをある種のリベラルだと考えようとしていたので、何の代替案も提示しなかった。しかし、ウォレスは明確な代替案を提示した。ウォレスは疎外することを恐れていなかったので、過去に過ちを犯した者、罰せられるべき者を恐れず指摘していった。リベラルは社会のなかのだれかを疎外してしまうことを恐れている。彼らは社会の楽観的なバラ色の絵を描いており、過去には悪いことがあったけれど、将来は、社会を完全に再構築することなしに、どうにかして良いものになると言っているのである。

 リベラルが本当に望んでいるのは、自らの立場を危うくしないような変化をもたらすことである。リベラルは言う、「あなたが貧乏なのは事実であり、金持ちがいるのも事実である。しかし、金持ちに影響を与えずにあなたをお金持ちにすることができる」と。他人を搾取することなしに、貧乏人が、ある国の金持ちに影響を与えずに経済的な安全を得る方法を私は知らない。もし終わりまでリベラルの論理に従えば、我々がそれから分かるのは、社会が公平になるためには、他の人々を搾取し始めなければならないということだけだと私は思う。

 第四に、リベラルが影響力と権力の違いを理解しているとは思えず、リベラルは権力よりも影響力を求めて混乱しているように思う。右翼の保守派やファシストは権力を理解している。もっとも、リベラルが影響力を求めている間に、かれらは権力を強化しようと動いているのであるが。

 アメリカで公民権法が制定される前の時代を見てみよう。特定の公民権法の成立を求めて、労働運動、学生運動、教会の連合があった。これらのグループは幅広いリベラル連合を形成し、特定の法案を成立させるために影響力を行使することができたけれど、それが法律になってからは、その法案を実行する力は持っていなかった。特定の法律が可決された後、彼らは自分たちと戦っていた人々に頼らざるを得なかった。そうした人々は過去にはそれを望んでいなかった人々である。リベラルは変化をもたらす影響力を求めて戦うのであって、変化を実行する力を求めて戦うのではない。本当に社会を変えたいと思っているならば、変化に影響を与えるために戦ったり、それを成し遂げるために他の誰かに機会を任せたりするようなことはしない。もし、リベラルが本気であるならば、かれらは影響力のためではなく、権力のために戦わなければならない。

 リベラルの政治にはこのような落とし穴が存在しているのである。なぜなら、リベラルは抑圧者の一部だからである。彼は現状〔の特権〕を享受している。リベラル自身は積極的に他人を抑圧しているわけではないかもしれないけれど、その抑圧の果実を享受しているのである。そして、リベラルは修辞的に、現状のシステムに嫌気がさしていると主張しようとしている。

 リベラルは抑圧者の一部ではあるけれど、その集団の中で最も無力な部分である。したがって、リベラルが変化について話そうとするとき、彼は常に抑圧者ではなく、抑圧されている人々と対峙することになる。リベラルは抑圧者に影響を与えようとするのではなく、抑圧されている人々に影響を与えようとするのである。彼は抑圧されている人々たちに何度も何度も何度もこう言う、「銃は必要ない、行動が速すぎる、過激すぎる、極端すぎる」と。 リベラルは決して抑圧者に「抑圧されている人々に対する扱いが極端すぎる」とは言わない。たとえリベラルが抑圧者の集団の一員であっても、である。しかし、リベラルは影響力を持っているか、少なくとも、抑圧されている人々よりも力を持っている。警告したり、非難したり、または抑圧されている人々の動きを指示し、導こうとすることによって、リベラルはこの力を享受しているのである。

 抑圧されている人々がリベラルの落とし穴を発見しないように、リベラルはヒューマニズムを語る。個人の自由や、個人の関係について語る。ファシストによって管理されている社会では、人間の理想主義を語ることはできない。もし実際にヒューマニズム的な社会を望むならば、政治的主体、政治国家がヒューマニズムを許容するものであることを確実にしなければならない。だから、本当に人間的理想主義が現実のものとなるような国家を望むならば、政治国家をコントロールできなければならない。リベラルがしなければならないことは、権力のために戦うこと、政治国家を得ようと努力することである。リベラルがこれを行えば、リベラルがいつも話しているような社会における人間的理想主義を確実にすることができるだろう。

 上記の理由から、リベラルは自分たちが説いている人間的理想主義をもたらすことができないので、大抵起こることといえば、リベラルが語りかけているところの抑圧されている人々が、最終的にリベラルに完全に嫌気がさすこと、リベラルは抑圧されている人々の闘争の方向を誤らせて、自分たちを支配するために送られてきたのだと抑圧されている人々が思い始めることである。だから、リベラルは、それを好むかどうかにかかわらず、抑圧されている人々によって自分自身が圧迫者と一括りにされていることに気づくのである‐もちろんリベラルはその集団の一部である。最終的な対立が起こると、もちろんリベラルは抑圧者の側にいることになる。したがって、もし抑圧されている人々が本当に革命的な変化を望んでいるのであれば、自分の階級のリベラルから解放される以外に選択肢はない。

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以上本文終わり


この翻訳は、いわゆる翻訳権の 10 年留保にもとづいたものです(日本国の旧著作権法第 7 条および現行著作権法附則第 8 条)。原著の日本語への翻訳権は消滅していますが、この翻訳の著作権は訳者にあります。


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【書誌情報】

原著:Stokely Carmichael (Kwame Ture). 1969. “The Pitfalls of Liberalism.” Mrs. Mable F. Carmichael: Exclusively distributed by KoKo.

訳者:渡邊辰

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