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時を超えて

木々の隙間から涼風が吹くなか、祖母は足を止めた。7月の暑く厳しい夏、蝉の声が一斉に鳴き始める。
 祖母は、ある想いを持って神社に来ていた。

「どうか、お腹の中にいる子が無事に生まれてきますように…」

 私の祖母は昭和13年 第二子を妊娠していた。しかし、祖母の身体の状態は低栄養、妊娠高血圧症候群だったため胎児にも栄養が行き届いていなかった。
 そして、その年の暮れも押し迫る頃、妊娠8ヶ月にして母が生まれた。超低体重児の1,000g未満、ペットボトル500mlの重さくらいで両手のひらに乗ってしまうほどの、小さな小さな命だった。
 その時代の超低体重児の処置は、困難極まりないものだっただろう。母から聞いた話だと、生まれたばかりは米の研ぎ汁を煮出してそれを濾したものを飲ませたり、小学校高学年ごろはカルシウムを注射で摂取したらしい。今でこそ母の腕は立派な骨太だ。医学的な処置は困難を極めただろう。この時代でこんなにも小さく生まれて育ったのは、奇跡的なことだったのではないだろうか。


 栃木県日光市清滝。山々に囲まれた地域、自給自足の生活。
 朝は釜戸の火おこしから始まり、洗濯は、洗濯板を使って手洗いする。トイレは水洗式ではない。お風呂は共同浴場。連絡手段の電話などない。
 でも、悪いことばかりではない。夜は、満天の星空が見られる。春には、近くの裏山で山菜取りをしたり、夏は、川岸で蛍が飛び交い幻想的な光景が広がる。秋は、真っ赤に燃え盛る紅葉があちこちに現れる。冬は、とにかく寒い。
そんな自然豊かな場所で、母は育った。

 このようなところで少女時代を過ごした母にとって、
「現代は信じられない、夢のような生活だ」と言う。
 その目の奥には、昔の記憶が甦っていたーーー


 私の祖父は、日光電気精銅所で働いていた。精銅所は足尾銅山と深く関わりのある会社。
 足尾銅山は江戸時代からずっと掘り続けられ、たくさんの人がここで汗水流して稼いできた。男が命を賭けて働く場所だった。昭和になって機械化は進んだものの坑道内は、暗く狭く危険な作業になる。
 それでも、祖父は最近生まれたばかりの二人目の子供が生き延びてくれるよう、祈りながら仕事に精を出した。
 祖父は、気が優しく穏やかな人。朝から釜戸に火をくべ、数少ない白米を炊く。塩むすびを2個作り、産後間もない祖母に気遣い一緒に食べる。祖母と話せるこの時間が大好きだった。しかし、幸せな時間ほどあっという間に過ぎてしまうものだ。後ろ髪引かれながらも祖母の笑顔を見届け、仕事に出かけるのだった。
 母は、祖父母の祈りの甲斐もあって命の危機を脱し、スクスクと育っていった。

 しかし、この精銅所内で事故が起きた。精製時に発生する鉱毒ガスが充満し、祖父はこれを吸ってしまったのだ。
 昭和18年2月 
 冬空の下、祖父は33歳という若さで亡くなった。この時、祖母は26歳、姉 5歳、母 4歳。
 奇しくも、昭和16年12月8日に“太平洋戦争”が勃発しており、戦中のこの時期に祖母は、大黒柱を失ったのだ。

『あぁ…神様、私はどうしたらいいのでしょう』

 日光の2月は極寒でとにかく寒い。
 木造の掘立小屋で隙間風がシンシンと身体の熱を奪う。祖母はガタガタ震える娘二人を自分に引き寄せ、こう言った。
「もう、お父さんとお話できなくなっちゃった」
「お父さんはどこにいるの?」
「遠いお空だよ…」


 その時代に労災認定など無かった。祖父が亡くなった後、戦争の混乱期に5歳と4歳の幼な子を母親一人で育てなくてはならなくなった。
 それでは大変だろうと、親戚たちが再婚の話を持ちかけてきた。2年前に病気で奥さんを亡くし、一人息子のいる10歳年上の人。お見合いといった形式ばったものではなく、双方とも子連れだったため“お食事会”という集まりにした。
 出迎えてくれたのは、再婚相手とその母。ひと通り挨拶をして食事を振る舞われた。
「今のご時世で、何にもなくてすまないね」と再婚相手の母が言った。
「いえいえ、とても美味しいですよ」
 本当に何もない。どこの家も苦しい経済状況の中でやりくりしている。それを三人も向かい入れてくれるなんて…祖母はどんなに心強かっただろう。
 食事も終わり、後片付けを祖母は自ら申し出た。茶碗を台所の流しに置き洗い始める。
「すみません…お願いしても良いかしら」
「あっ、はい」
 再婚相手の母はそそくさと台所を後にした。
 全部の食器を洗い終え居間に戻ろうとした時、祖母は見てしまった。
 自分の娘二人と再婚相手の息子の三人で遊んでいたところ、再婚相手の母が息子だけを呼び、おやつを食べさせている。
 これから家族になろうという時に幻滅し落胆した。やはり、よそ者は邪魔だということなのか…
 自分が大変な思いをして娘を産んだ時、祖父が塩むすびを作ってくれて一緒に食べた記憶が祖母の脳裏に甦る。

 『人を大切に思わない家は好かない』

 祖母は再婚するのをやめた。

 誰の人生でもない、自分の人生。

 『もう、誰にも頼らない。自分で娘二人を育てる』と決心した。


 祖母は、少しでも給料の高い仕事を求めた。しかし、女性の仕事は限られる。まだまだ男尊女卑のある時代。安い賃金とて職にありつけるのは幸運な方だ。

“子供二人を育てなければならない”

 くる日もくる日も、祖母は働き続けた。まだ幼い娘たちを親戚に預けながら働いた。何も余計なことは考えず、ただ、目の前にある仕事をこなす。
 帰宅すると、すぐに夕飯の支度。何も無いが温かいすいとんは格別だった。家に入ってくる隙間風に親子三人で身を寄せ寒さを凌いだ。暖は火鉢一つ。
 洗濯は、樽に水を張り洗濯板でゴシゴシこする。寒さと乾燥で手のあかぎれが裂ける。血に染まる洋服を、また洗う。
 戦争もだんだんと激化し、空襲警報が鳴れば防空壕へ走り込む。
 当たり前の日常が、遠い遠い昔にあったのを思い出す。お父さんとお母さんと小さな娘達が、ちゃぶ台を囲んでごはんを食べる。
 穏やかな日常が確かにあった。『でも、もう…それは無い…のだ』と祖母は途方にくれていた。


 昭和20年8月15日 終戦を迎える。ラジオの前で皆正座をして、天皇陛下のお言葉を初めて聞いた。神妙な面持ちで聞き入っている。
 すると、誰かが大きな声で叫んだ。
「戦争が終わった、戦争が終わったんだ!」
 それを聞いた祖母の目には、色味の無い風景がだんだんと色付き始めた。精神的に解放された心が、そう見えさせたのだろうか。灰色の時代がやっと、やっと、終わったのだ。
 しかし、相変わらず生活は苦しい。怒涛の混乱期。物が何も無く、道端に生えているタンポポやノビルをお粥に入れてカサ増ししたり、お芋ばかり食べる日々が続いたり、その日その日をなんとか暮らしていた。

 怒涛の混乱期を経て、祖母は祖父が勤めていた日光電気精銅所の食堂で、賄い婦の仕事を得られた。ここでも、女性の仕事は限られている。そして女性蔑視。『女は男の言うことを聞いていればいいんだ!』という風潮。何度も悔しい思いをした。
 ある時、豚汁のネギの後乗せか否かで言い争った。ほんの些細なことだった。
「ネギは煮るもんじゃねーだろ! 最後にのっけるもんじゃねーのか?」
「ネギはネギでしょ。クタクタだろうが、シャキシャキだろうが、どっちでもいいでしょ!」
 血気盛んな男達を横目に仕事に没頭した。本当は男達を怖いと思っていた。だけど、気を張って仕事をする。祖母は負けん気が強い女性で、抑圧される雰囲気を吹き飛ばそうとした。
 それは、“女を捨てる”という覚悟で仕事に挑んでいた。気を張る、何にでも過敏に反応する、そのストレスはゆっくりと祖母の身体をむしばんでいった。


 母は、大きな病気一つせず順調に成長した。中学を卒業し洋裁学校に2年間通い、洋服の仕立てを学んだ。その後、洋品店に勤め家計を支えるようになった。
 一方、母の姉は頭が良く東京の短大に入学した。その入学金は、祖母が親戚から借金したものだった。
 母が稼いできた初めての月給8,000円のうち、5,000円を親戚の借金へと当てた。そして、祖母は母にこう言ったそうだ。

「姉の方にはたくさんお金をかけたけど、お金かけていない妹の方に助けられるなんてね…すまないね…」

 母の姉は短大卒業後、就職をしてその職場で出会った人と結婚をし、そのまま東京に住むこととなった。
 母は、この家を継ぎ婿を取って祖母と暮らし始めた。そして、長女、長男の年子と次女の三人の子供を産み、五人家族となってにぎやかな生活を送った。
 高度経済成長、所得倍増計画、これからの日本は戦後の暗い時代を吹き飛ばす勢いで人々は陽気になり、祭りや行楽に繰り出して行くようになっていった。
 それとは真逆に、祖母はだんだんと元気がなくなる。食事の後に何度も吐くようになってしまったのだ。母は心配になって、祖母を病院へ連れて行った。

 「だいぶ…ご苦労されたようですね。
 胃、すい臓、胆のうを全部取らなくてはならないような状態です」

 医者は母に、淡々と説明をした。そして、
 「これは誰にも言ってはいけないですよ」とも。

 その時代、ガン告知を本人には言わないというのが常識だった。

 終戦から20年後の昭和40年の夏、祖母は胃がんで亡くなった。
 享年48  その時母は、26歳。

 亡くなる数時間前、祖母は母に
「あなたにつく悪い物、全部持っていってあげるからね」と言って亡くなったそうだ。
 身を粉にして働き、二人の娘を育て上げ、天寿を全うして祖母は旅立った。


 …それから4年後、私が生まれた。高度経済成長の中、私は育った。

何不自由の無い生活
物が溢れかえる時代
使い捨ての時代
サービス向上の時代
スピード重視の時代
 ただ、流されるままに生きてきた。不自由しない分、考えることをしなくなる。その延長線上での結婚。お互いの主調ががぶつかり合う…



祖母が亡くなったのは48歳。苦労と共に生きてきた。

今、私はこの歳を超え、自分の人生を切り開こうとしている。

人生の時代は違えど、子供を育てる苦労に共感しこの話を書いた。

祖母が生きられなかった分、私が生きて死ぬまで書き続けよう。

人間の “苦しみ” “願い” “想い” を書きたい。

それぞれの人生を書きたい…


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