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教員室のドアを叩けない私は、きっといつか優しくなれる(と信じたい)
できることとできないことの間に「できるけどすごく大変なこと」がある。
それは、できることやできないことと同じように、人によって変わるし、「大変さ」だって人による。
発達障がいやグレーゾーン(発達障害の傾向があるものの、医療機関の診断では基準に満たない状態)が広く知られるようになってきた影響もあり、「平気そうに見える/できているように見えるけど、他人より疲れてしまう人もいるのだ」ということは少しずつ周知されてきたように思う。
X(旧:Twitter)やブログなどを読む限り、障がいをお持ちの方やその傾向がある方と比較すれば、私にとって「できるけど大変なこと」は比較的少ないのだろう。
でも、そんな私にも「できるけど大変なこと」がある。しかも、他人がこれを簡単にできればできるほど、この気持ちはわかってもらいにくいのかもしれないとも感じる。
いま、私がつまずいていること。
『先生に質問しにいくこと』
中高生の時の部活の顧問の先生がめちゃくちゃ怖かったり、小学生でいじめにあっていた時の先生への不信感だったり、そういった経験や感情が起因しているんだと思う。
高校の時もわからない問題があったとしてもなるべく参考書とにらめっこして、どうしてもわからないところがあればどこまではわかるのかをしっかり詰めて質問しにいくようになっていた。
そのせいで(おかげで?)質問も3~5分とかで終わるから、そんな小さなことで呼び止めてしまった自分が恥ずかしくなってまた質問しづらくなって…の繰り返しだった。
(一応恩恵もあったけど、それはまた別の機会に。)
今、理系の大学4年生として卒業研究を進めている最中。
同じテーマをやっていた先輩も休学や卒業などでいないので、先生に聞かなければいけないことは山積み。
だけど私は、教員質のドアを叩けない。
同期や先輩に相談しても「別に先生そんなにすぐ怒らないでしょ〜?」とか「今いるみたいだから今のうちに行ってきなよ!」と言われる。
それが優しさだってことはわかるんだけど、先輩たちが当たり前のようにやってのけていることが、私にはよりプレッシャーになる。
「なんで私、こんなこともできないんだろう」って。
でもそういうふとした自分の弱さを感じる時は、自分の行いを振り返る時にもなる。
私は、他人に強制していなかったか。自分にとって楽なことを。
自分の物差しで測っていなかったか。相手の辛さを。
今ある状況の解決には1ミリもつながらないけれど、辛いなぁと思って教員室の前で突っ立っている私は、いつか他の人に優しくなるための鍵になるのかもしれないと思うと、少し救われるような気がする。
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