言語化特訓「7日目」
幸せの指標
幸せに正解はないし、人ぞれぞれの幸せが本当の幸せで、それが客観的にヤバくても口出しすることではないと思っているのは大前提でお話をします。
幸せの指標がなく、幸せがお金で計られていることに違和感を感じるし間違ってると思ってる。
なぜそう思うんだろうと考えたら、お金でお困っていた小さい頃があったけど、誰よりも幸せだった自信がある。
だから自分の中でも違和感が芽生えたんだろうと思った。
僕は小さい頃裕福な家庭ではなかったし、ケーキのない誕生日、晩ご飯がご飯とツナだけの日もあったけど僕は幸せだった。
それは洗脳でもあり虐待かもしれないけど、今の自分にとって大いにプラスになってるので親には感謝してる。
大人になってその頃の話を親に聞いたときはそれでも最高の贅沢で、僕らには見せない涙と苦悩があったことを知る由もなかった僕は親に恵まれてると思う。
最近幸せを指標化しない方がいいかもしれないと思ったことがあります。
例えばCDの人気は順位が出るけど数値化はされてなかったが、Twitter・Instagramが主流になってからは人気が数値化されるようになっている。
人気が数値化されるようになってからは社内的評価、親近者的評価よりも断面的しか見てない一般市民の評価で人気が決まってしまうのはどこかもどかしく感じる?
スポーツの世界で言えば結果が全て、過程がどこまで辛いエピソードだろうが結果で順位が決まるが、その結果は自分しか関わらないどんなに第3者が応援しても結果は変わらない。
幸せは自分の評価なのに、数値化してしまうことにより第3者の評価が関与してしまう可能性があることを考えると数値化は最善ではないのかと思った。
第3者が関わらないとしてどうやって測ることができるのかと考えたときに思いついたのは笑顔と会話の数だと思った。
笑顔と会話がない世界は辛いから🌏23:48