人生2度目の入院はきっかり3ヶ月
京都での大学在学中に始めたとんかつ屋でのアルバイトも、一年と少しを過ぎた3月のことでした。
私は厨房で調理を担当。主にとんかつを揚げて揚げてまた揚げて、揚げまくっていた最中に突然の倦怠感、吐き気に襲われてトイレに駆け込んでも何も吐かず、結局早退することが2日ほど続けてありました。
近所のクリニックを受診したところ、採血・尿検査と診察の結果、できるだけ早く大きな病院を受診してくださいと。
腎臓病の一つ、ネフローゼ症候群ですねと言われました。
医師に言われて覚えているのは食事をとにかく水くさいもの(薄味)にしてくれと言われたこと。それまで気が付きませんでしたが、足はかなり浮腫み、脛を指で押すとへこんだまま戻らない。
アルバイトを早退した時にはもうこの浮腫は生じていたんだと思います。
以来、身体に疲れがたまったりしんどい時は脛を触って浮腫がないか確認することが癖になりました。
紹介先の病院に行くまでのなんと言ってよいかわからない不安。ちょうど大学は春休みでしたが、その間何をして過ごしたのか記憶がありません。
紹介先の病院でも尿検査と採血をして、検査のために一週間程度入院しましょうとなりました。
それは人生2度目の入院で、2度目の腎生検です。
さすがにもう20年もたった今は何も感じなくなりましたが、その時の春の暖かさ、長袖シャツ1枚でちょうど良い、過ごしやすく万人に好まれやすい気候が、私にとっては不安、後悔、どこかでもう大丈夫なんじゃないかと勘違いしていた幼少期からの腎臓病への恐怖が入り交じる、毎年苦悩を思い出す気候として身体に刻まれることになったのです。
4月の半ばに入院して、初日の夜は大部屋の他の患者さんに悟られないようにすすり泣きしました。
翌日に控えた腎生検への怖さもありました。
でもそれよりも、
どうしてこうなったんだろう?
何がいけなかったんだろう?
この先どうなるんだろう?
自責や、先の見えない不安や、恐怖です。
腎生検当日は腹をくくりました。
でも生検中は、
二度とこんな思いはしたくない。
早く終われ〜
と念じてました。
18年後に3度目の腎生検をするなんて、夢にも思わずに…
予定通り5日間で退院し、1週間後に検査の結果を聞きに受診をして、やはり入院治療が必要との結果でした。
時期的にゴールデンウィーク前でしたので、入院はゴールデンウィークが明けた月曜日からとなり、予定では1ヶ月程度の入院になるとの話。
入院直後は1ヶ月がんばれば良くなるという先が見えたことで前向きな気持ちと、やっぱり過去の自分を責める後悔とが混ざっていました。
入院中にすることもないので大学で使っている教科書を持ち込んで勉強したり(語学系の学部でした)もしましたが、当初見込まれたほどの投薬治療効果が出ず、次第に気持ちが塞ぎ込みがちになり、入院して2〜3週間が過ぎた頃には勉強をやめました。
点滴や内服での治療だけなので本当に暇で、することはと言えば現実にはできないことへの空想による逃避ばかりでした。
院内の売店で地域のおでかけ情報誌を買ったり、テレビで旅番組を見たり。
テレビのグルメ情報や料理番組を好んで見ていましたが、私は食事の制限もあったので、入院期間が長くなってくるとそういうテレビを見ても、
どうせ自分は食べられない!
なんでテレビはこんなに食べ物のことばかりやるんだ!
と悲観的、批判的な気持ちばかりが湧いてくるようになってとてもストレスを感じていました。
何もできない現実のつらさを忘れさせてくれる、希望のような存在だったものが、しだいに疎ましく、逆につらい現実を際立たせる存在になってしまったんです。
病状の改善ペースが遅く、いつになったら自分の身体が良くなるのか、退院できるのかが見えず、入院期間が長くなれば長くなるほど気持ちはお先真っ暗なダークサイドへと落ち込んで、希望のカケラも見つけられなくなってしまっていました。
ヒトは先の見えない状態になることや、希望を持てなくなると精神的に追い込まれてしまうので、生きることがつらくなるんだなと感じました。
この頃は今までの人生の中でトップクラスの暗黒時代でした。
生きてさえいれば必ず良いことはあるという言葉を支えに、ただただしんどい毎日を過ごしているうちに季節は真夏になり、退院できたのは8月上旬。入院してからちょうど3ヶ月経つ頃でした。
この入院中に体重は10kg落ち、衝撃的だったのは電車の駅の階段を上がることがとてもしんどくて、足が上がらない、手すりを持たないと無理という身体になっていたことです。
入院中はほとんどベッドの上で過ごし、少し病院内を散歩する程度の活動量で階段を使うことはほとんどない生活を3ヶ月送ったことで、下肢の筋肉量が恐ろしく減ってしまっていたんですね。
やせ細った足を恨みました。
退院後は大学が夏休みだったので、とにかく休んで少しずつ身体を動かして、夏休み明けから大学に通うことができました。
その後も戻りきらない体調と就職活動が重なったり、いろんな壁にぶちあたりながら、この時の入院をきっかけに知った管理栄養士になると決めて、就職活動はやめ新たに管理栄養士養成校に入り直し、今の病院管理栄養士に至ったということです。
私にとっては病院の管理栄養士になるということ、疾患を持つかたの傍で支えとなることが、真っ暗な未来の中に見えたわずかな光でした。
入院中のマシな思い出の一つに、朝食後の大きい方のトイレをどこでするか巡りがありました。私の中では病院内に人通りの少ない所や外来フロアなど合計3箇所候補のトイレがあって、優先順位を決めていたので1番から順に空いているところを探して用をたしていました。
でないと毎日病室の外へ行く理由がないんですよね。暗黒面に落ちながら楽しめる気持ちの余裕がない中での、ほんの少しの冒険だったのかもしれません。