太宰治にガチ恋した女が語る映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」
⚠️ネタバレあります!苦手な方はお気をつけください!!
アニメでも何でもないきっかけで、小学校中学年のとき、太宰治の“人間失格”を読み、卒業するまでの間 作家 太宰治にガチ恋していました。
思い返すだけで黒歴史なのですが、
・図書館で貸し出している太宰の小説を全て読破し、太宰にまつわる文献を借りまくる
・ガラケーの待ち受けを太宰治にする。
・太宰治のWikipediaを読み漁り生涯を暗記ペンで暗記する
・山崎富江の日記を読み、嫉妬から大泣き、三日間学校を休む
・太宰治と自分の恋愛小説を書く(もちろん非公開)
など、当時のエピソードは数しれず。ほんとうに恥ずかしい限りであります……
さて、そんな私が本作「人間失格 太宰治と3人の女たち」(以下、本映画)を鑑賞するきっかけは、小説の依頼者からの要望でした。もう少し悪い男に描いて欲しい、との修正依頼を受け、予告映像から太宰を女癖の悪いクズとして描いていることは想像に容易く、インプットに最適だと感じたからです。
映画レビューとして、作品紹介とネタバレ込みの見どころをいくつかご紹介させてください。
作品紹介
「恥の多い生涯を送ってきました」
作家 太宰治(役 小栗旬)が生前最後に完成させた長編小説〈人間失格〉
数々の名作を世に送り出してきた太宰だが、身重の妻 美知子(役 宮沢りえ)という存在がありながら、〈斜陽〉のモデルとなった太田静子(役 沢尻エリカ)、山崎富江(役 二階堂ふみ)と不貞をはたらいていて…
作品のみっつの見どころ
この作品の見どころを大きく分けるとみっつに分けられます。
以下、敬称略にて失礼します。
・現代的でキャッチーなせりふ回し
・蜷川実花が描く映像の美しさ
・早船歌江子が描いた太宰治と女たち
本映画脚本 早船歌江子先生といえば映画「紙の月」が印象的ですが、原作を映像化作品に移行する際のシーン選びがとても上手だと感じると共に、“堕ちる女”を表現する能力が凄まじく高いなと感激し、非常に参考になりました。
ひとつめの魅力から詳しく書いていきます。
1.現代的でキャッチーなせりふ回し
本作の舞台は昭和9年頃、太宰が人気作家としての道を歩んでいるとき。戦後初期とは言え、明治の名残が少し残っている頃なので、小説では旧字体を用いられています。
話し言葉のほうはどうかと言うと、今よりも硬い言葉遣いをすることが多かったように思います。
さて、本映画では登場人物のせりふがかなり現代的になっています。
「してみないか?」ではなく「する?」と言ったり。
「していて」を「してて」と言ったり。
表現として眉を潜めたくなりますが、メタ的に考えるのであればアプローチ層(恐らく若年層、大学生~20代前半くらい?)を入り込みやすくするためかな?と考えました。作品的に考えるならば、後半、三島由紀夫(役 高良健吾)と太宰のエピソードに由来するシーンで、三島と太宰の“対比”と描くためなのかなとも思います。(オタク特有の深読みだったら申し訳ない。)
三島は、自身のエッセイ「私の遍歴時代」で、太宰の文学の才能を認めつつ、人に評価されようと書いているところや不幸な自分を面白おかしく書くところ、文章から漂ってくる青臭さ(いなか者っぽさ)がきらいだと書いています。
日記形式で綴られた「小説家の休暇」では、太宰の性格の半分は生活習慣を直せば直る、治りたがらない病人だと語っていることから、三島から見える太宰はしぶとい害虫のように映っていたのでしょう。
本映画に登場する三島は役人として登場しますが、凛として芯のあるせりふは、1シーンだけの登場ではありますが、三島の強さを感じさせます。現代的なことばを用いれば“体育会系”の三島。クーデターの末、最期は自らの腹を切り亡くなりました。そんな三島が抱いた“文学への美学”がこの1シーンにぎゅっと凝縮されているんですね。
伊馬春部(役 瀬戸康史)が太宰に声を掛けにくるシーンといい、文豪オタクへの“ファンサービス”も忘れずに入れてくる早船先生!こちらとしても幸せです。
ちなみに、なぜ三島と太宰は出会うことになったのかというと。編集者である野原一夫(後に『回想 太宰治』を執筆、出版した)が後輩の学生から頼まれ、太宰との飲み会をセッティングしたところ、その中のひとりが三島だったようです。
学生でありながら雑誌にいくつか小説を掲載し、太宰の小説を批評することも多かったことで、このふたりを引き合わせたら面白そうだといって飲みの席で出会うことになったんですね。結果、三島は太宰へ「ぼくは太宰さんの本は嫌いです。」と言い放ち、二度と会うことは無かったわけですが。
もうひとつ好きなせりふを紹介させてください。
序盤で坂口安吾(役 藤原竜也)が酔っ払って太宰へと絡むシーン。
安吾の破天荒ぶりがこのシーンでは描かれるわけですが、安吾自身は“作家論について”で自分を表現するために他人の人生を使うと豪語しています。
(ちなみに“作家論”とは三島が森鴎外、尾崎紅葉、谷崎潤一郎ら十五人の文学と美学を三島が紐解く評論集です。要は安吾からのアンサーですね。)
堕落論をオマージュしたせりふを言わせると共に、安吾には、太宰自身の人生が破滅的になるほど、傑作を生み出すことが分かるくらい深い関係にあることを表すシーンでもあるわけです。
そしてこのせりふは、本映画の中でも重要な役割を担い、終盤、美知子のせりふにも繋がってゆきます。
す……
す……!!
すげーーーーーーーーー!!
すげーぜ、早船先生!!!!いい仕事どころじゃない、ほんとうに脚本を書くことを選んでくれて、ありがとう。こんなせりふ、私が脳みその引き出しひっくり返しても出てこねえぜ。完敗です。
2.蜷川実花が描く映像の美しさ
蜷川実花監督といえば、Diner、ヘルタースケルター、実写 xxxHOLiCらの作品が記憶に新しいです。
前半、太田静子のパートでは蜷川監督らしい、鮮やかな色使いで静子の晴れやかで奔放な姿が描かれ、対する富江では落ち着いた色使いを用いて富江が太宰へのめり込んでゆく姿が描かれています。
特に、太宰が富江にキスをしたあと、帰宅した富江が亡き夫を思いながら泣くシーン。そう、窓の光が十字架のように漏れているあのシーンです。イエス・キリストですらマタイ傳福音書で“色欲に支配される者は女をいやらしい目で見ている。女はその目で見られたら目をえぐり出せ。もし誘惑をしようと手を伸ばされたら、その手を切り落とせ”と解釈できることを記しているわけですから、ここで富江は亡き夫だけではなく、イエスにも懺悔をしているんですね。
静子はマリアの前でキスしてたのに、富江はイエスに懺悔すんの!?それでいちばん、太宰に狂わされてるわけでしょ!?!?ひぃーーーー!えろすぎる!!!!!
大興奮です。
また、中盤、佐倉が太宰に人間失格を書けよと詰め寄るシーン。そこで太宰は佐倉から、耳の痛いことばをたくさん聞くことになります。祭囃子が大きくなり、ひとりの子供が持っていた風車がまわると、真っ赤な世界でたくさんの風車が回り出す。長女と同じくらいの年端のいかない子どもたちが太宰を大きな声で笑っている――このシーン、私は太宰が抱いている“劣等感”が具現化したシーンなのではないかと解釈しました。
ちなみに色彩心理学(色から人間の心を読み取ろうとする学問)で、赤は“情熱、自信”を表す色であり、“怒り、攻撃、警戒、危険”を表す色でもあります。
後に傑作を産むことになる太宰。本映画のなかで、このシーンがひとつの節目となることも明らかですね!
それだけじゃなく、蜷川監督は花を使った技法が本当に上手くて。終盤、雪の中で結核に道で倒れた太宰を、白い牡丹が覆い隠してゆくシーンなんて息出来ませんでした。芸術表現として美しすぎて言葉が出ません。
これは男性的な考え方を持つ方より、女性的な考え方を持つ方の方が魅力としてストレートに伝わると思いますが、ずっと“なんか可愛い、きれい、すき”っていう場面が続くんです。それは蜷川監督が描きたかった部分なのかな、と勝手に都合よく解釈させて頂いてます。(きもい)
3.早船歌江子が描く太宰治
本作は1930年、太宰が陶酔した左翼運動の思想から生まれ育った環境に悩み、薬物自殺を図った一年後から物語は始まります。
美知子の前妻、初代との結婚の条件として、簡単に言えば家族から勘当されてしまった太宰は実家へ帰った翌月、愛人であるシメ子と薬物を摂取した後に海で入水自殺を図ります。
シメ子が死に太宰が生き残る訳ですが、シメ子は最期、太宰の名ではなく、他の男の名前を呼びながら沈んでゆき、命からがら海から這い出てきた太宰はこう呟きます。
「助かったあ」
もうこの時点で太宰は女を精神安定剤にしているメンヘラはなくて無自覚に女をメンヘラにしてしまうクズ男として描かれているわけです。エンタメとして太宰の生涯を抱くということでどうなるのかとひやひやしましたが、かなり新鮮で、ラストがよりこの描写を入れたことで際立ったなと感じました。
わたしの中での太宰のイメージは、富江との入水含め、六回弱自殺しようとした経緯もあることから、人前ではおちゃらけて見せるくせに、すごく繊細で、嫌なことがあるとすぐ死にたくなる。でもいざ死のうとすると怖くなるヘタレなんですよ。太宰にとって愛人は私利私欲を満たすための道具でしか無いのと共に、太宰自身がちゃらけてみせるためのメンタル安定剤。
だって、出版社に就職できず首を吊ろうとしたり、嫁の不倫を知って女と心中しようとする男ですよ。寂しさを満たしてくれて、一緒に死んでくれるって言う、可愛い女だったら誰でもいいって分かるじゃないですか。
それが本映画では、女を口説き落としておきながら、いざその女がその気になると、迷惑だと思うのに、迷惑だと言いきれず、最期も富江を断りきれずに死ぬ。ばかばかしさは、まさに太宰と言ったところですが、自己解釈とは違う姿に思わず度肝を抜かれました。
私は今まで太宰が狂っていたと思っていたけれど、そうではなく、太宰が女を狂わせてしまう魔性の男だったのかと。盲点すぎる視点でした。
ちなみに安吾の記した「太宰治情死考」では太宰の死をこう書き記しています。
私は酔っ払って、いつものように死ぬ死ぬ言い出し、いざ死のうと川辺に来て、怖くなった太宰は情けなく泣き出したんじゃないかと考えています。富江はそれに怒りながら、無理に引きずって、川へ入っていったんじゃないかと。
本映画では山崎富江を“静かに狂う女”として描き、玉川上水の川辺で「生きよう」と言う太宰に「死にたいんです。」と返す。太宰は困ったように受け入れ、ほんとうに死んでしまう。
太宰は苦しんだ痕跡が無かったことから、入水する時点で既に死んでいたのではないかという説もあるようです。
真実は未だ謎に包まれていますが、遺書として妻の美知子に宛てたことばだけは、真実として今も残されているんじゃないか、という気がしています。
まとめ
太宰治という人生をエンタメ寄りに描いているため、多少解釈の不一致はありましたが、とても楽しめました。
小栗旬さんが演じる太宰も魅力的なんですが、藤原竜也さんが演じる安吾が、太宰の理解者としてのポジションを終始保っているのが好きです。
ストーリー含め様々な要素からかなり刺激を貰いました!
安吾の「不良少年とキリスト」の一節でむすびと変えさせていただきます。
太宰好きも、そうじゃない人も、お子様はちょっと気まずいけど、みんな楽しめるので、「人間失格 太宰治と3人の女たち 」見てくださいねん☆〜(ゝ。∂)