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悩める殿方 -過去、というアイデンティティ-

ところで最近、ナンセンスな殿方が多い。

男とか女とか、主語を大きく括って語るのが憚られる場合があることは重々承知なのだが、あえて『ナンセンスな殿方』と男性のみを指して言いたい。
私が過去に恋愛の相手として対峙してきたのは、皆男性だからである。

例えばナンセンスな殿くん①の話でいうと、未だに私の話を吹聴するらしい。種類は様々で、悪口であったり、私が悪人という前提のもと、あくまで彼は善人の顔をして、カギカッコツキの忠告を周囲へ施すような素振りであったり、私とどのような関係性を築いていたか、またもや私との思い出に纏わる話であったり…
それを私の友人や恋人など、私に近いところへ狙いを定めてやっているようだから甚だ滑稽である。一体なにがしたいのであろう。愉快な一人芝居のお披露目だ。
私は殿①のことなど、(特に思い出などに関しては)全く想起されない日々が続いていたのだから、拍子抜けだ。今では貴方の誕生日すら思い出せない。無理矢理に記憶を辿ったとして思い出すのは、食事の時に白いご飯に何度もおかずをバウンドさせている姿くらいである。(生理的な不快を覚えた瞬間だ。)

②の話をするなら、何故だかこないだ、不意にたよりがあった。どうやらこの殿は、私の生き方をとても心配しているらしい。殿の見解によると私はとても孤独で、救われるべき存在だ。(あまり覚えていないが確かそのようなことを言っていた。)
その他にも色々な指摘があって、たしかに私を外から見ようとすればそう見えるなと思うところもあったが、あまりに表層的な気がした。まずそもそも、人は皆孤独である。私はその前提に立って生きているだけだ。だがその私を脆い存在に見ることで、相対的に自らの現在を肯定しているようにも受け取れるような言葉に響き、その正当化がかえって頼りないと感じた。
時間をかけて緻密な分析をしてくれていたように感じ、私が彼のことを全く考えていなかった分その労力をありがたくも思ったが、同時に、主人公として生きていたい青年の若さも感じた。
もっとも彼は若いので、(22歳の私が若さを語るのも甚だ滑稽だが)致し方が無いのだろう。
ただその心意気は大いに結構できっと素晴らしいものであろうけれど、私の生きる範囲でなく、よそでやってくださいというような、やれやれと草臥れる感覚に襲われた。
きっと私のほうが少し先に、彼との時間を飛び越えて、どこかへ行ったのだと思う。

おまけで③の話をする。
何故おまけかというと、私と恋愛関係になかった殿の話だからだ。
もちろん、恋愛感情すらない。
この殿に限っては、ただの一度会ってお茶をしただけで、私と寝たと言って回るそうなのだ。私の昔の恋人にもそんなことを言ったらしい。
唖然である。
周りにはそんな大きなことを触れ回る割に、当の私には態度が小さい。例えば私が忙しく、ほんの数日返事ができなかっただけで、追いのメッセージを送ってきたりそれを取り消したりを繰り返したのちフォローを外してしまったかと思えば、またもやフォローをしてメッセージをしてみたり、という具合に。
わざと返信をしていないのではない。ただ私も体はひとつ、時間は24時間なのだ。限りがある。ただそれだけだが、とても気になるらしい。
それほど気が小さいのに何故、そんなにも大きな嘘がつけるのか。
疑問である。


以上に挙げた殿方だけではない。滑稽で失礼な殿は他にもたくさんいる。(たくさん、と言うと私が誤解を受けそうだが。)
ただ驚くべきことは、この殿方にはおそらく現在、愛すべき存在が隣にきちんといることなのだ。

黙って今のお方を慈しんでいればよいところを。そんなに暇じゃないはずでしょう、と言ってやりたい。
そんなこと、他の女性から言われるような生き様を晒しているなど、情けがないと思わないのだろうか。

その情けのない殿方が、各々自らに都合の良い形で私を語るものですから、私はまるで、時に大物の女狐であり、時に戦略家で百面相の狸であり、時に愛されない孤独な子猫であり、時にみじめなウサギのように思われるのだ。

基本的には他人からどう思われるかが全く気にならない性分なので、関わってきた殿方が好きなように吹聴しているだろうということに気が付きつつも、これまで素知らぬ顔をしていた。
好きなように言わせておけばよかった。
それで皆が心地の良い、納得のいくような好きな像を、私に投影すればよかった。

ただ今回筆を認めたのは、おそらく彼らにとって、私は彼らの自己アイデンティティの一部を担保するための"道具"なのだろうと気がつき、少し不愉快に思ったからだ。
ここからは私の仮説の話だが、誰かと対峙する自分、というものは、アイデンティティの一部になりうる。
例えば、〇〇という会社に勤める自分、△△を趣味にする自分、♡♡大学の◎◎サークルにいる自分、☆☆のファンの自分、のように、鮫島和という女と××な関係にある自分、というアイデンティティがある。
これらアイデンティティの複合系が、ひとつの大きな自己アイデンティティになる、というのが私の仮説だ。
その仮説に基づくならば、過ぎ去った話にいつまでもしがみついている彼ら殿方は、過去の人間であるはずの私を、生活にもはや存在していないはずの人間を、未だに今の自分を形成する要素として使い続けていることになる。
その姿勢はつまり、別れによって欠けた自己アイデンティティのパーツを、欠けたと認めることができない弱さそのものであり、その弱さを言い訳に、私を道具化していることそのものなのである。


どんな形であれ、自分達が気持ちのよい形で(彼らは無意識かもしれないし、過去への誠意と履き違え、せねばならぬことのように真摯に向き合っているつもりの場合もあるかもしれないが、私が頼んでいない以上それは、彼らの自慰行為なのだ)、私を"観る""触れる""引き受ける""語る"。

つまり彼らの生のために、私の生は搾取されている、ということなのだ。
そう思うと甚だ腹立たしい。
"だったら私も搾取してやろう"というほんの諧謔心から、筆をとってみたのである。
面白いコンテンツとして、こちらからも搾取するのだ。
されているばかりじゃ、採算が合わない。そうではなかろうか。


ただ、腹を立てるのも勿体がないというくらいに、私は今に夢中なのだ。
腹立たしく感じるのはほんの一瞬で、全て、過ぎ去ったことに収斂されていく。
私はいつまでも、旬な今にしか興味がない。

だから殿方も、今を生きることで自己アイデンティティを形成していくべきだ。
そのためのしなやかさを、身につけるべきだと、私は思う。


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