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原風景の喪失、揺らぎ

これを書いていたのは4月1日になりたての深夜、もう2ヶ月以上も経ってしまった。
が、そんなことを無視して無理やり投稿する。



私が3歳から現在まで住んでいる街、下高井戸の駅前市場が3月31日、最後の日を迎えた。

これまでの感謝を綴った張り紙と、ピシャリと閉められたシャッターは、その景色が過去のものになり二度と姿を表さないことをはっきりと宣言していた。


再開発の兆しは数年前からあり、うらがなしくも感じていた。
でも、いざ実際にその光景を目の当たりにした時私は、正直に申し上げるならば、うらがなしさなんかではない。自己の喪失を覚えたのだ。
そこに起きていることは「街の景色の喪失」でも、その目の前で私ははっきりと、自己を喪失していた。

とはいえ完全なるものではなく、一部を失ったような感覚だったので"揺らぎ"と表現するのが正しいのかもしれない。
しかし、わたしはたしかに街の景色の崩壊とともに自らの存在までもが脅かされるような、そんな恐ろしさに震えていたのだった。



見てきた景色や経験がその人を作る、なんてよく言う。

今回のことは、それを私に、まさに教えてくれるような出来事だったように思う。
私の中に存在していた風景が、いつの間にか私の世界の見方や好き嫌い、心の形をつくるような要素の一つになっていたのだろう。
人はそれを「原風景」と呼び、わたしにとっては多分それが下高井戸商店街だったのだ。
だからその原風景が目の前で崩れさろうもんなら、自分までもが壊されていくような感覚に、おののいてしまうのだ。


ちょうど自然環境が、そこで生きる人々の住まい方や食べるもの、身につけるものを規定していくようなことちょっと似たようなことだと思う。
それはもっと実際的なしきたりや身体、生活様式に結びついた話かもしれないが、今回私において規定されていたのは「まなざし」とかいうアイデンティティの部分だったのだろうな。
だからそれが消えてしまったことで、私の存在の一部がぐらついてしまった、そんな構造なんだろうと思う。


それはそうだとして、私の場合あまりにその喪失感が大きかった。
だったら私は、地元の街という私の外側の存在を、すなわち自己そのものと結びつけてしまうほど、脆くて不安な個人だということなのではないか。
だってその証拠に、こんなにも怖い。
外側のなにかが欠けるその時に自分も消えていくような錯覚を覚えて、こんなにも怖い。

また一つ、己の頼りなさを自覚してしまった。

私は一体、これから何を欠けた部分の代替として補っていくのだろうか。
過去の姿にこだわる癖のある私に、そんなものが見つかるだろうか。 
はたまた今回のコレは、自分の一部が失われた恐怖なんかではなく、もう二度と見られないとされる景色が増えることへの恐怖なのだろうか。
そう捉え直してみたとしても、そっちのほうが補完不可能だ。そんなものと向き合う。もっと怖いことだ。
ああ私、どうしたらいいだろう。


そんな不安を無視するかのように、乱暴に4月が来た。

脆い私は、これからもやっていけるだろうか。
なにも変わらないように見せかけながら、のうのうと生きてるように見せかけながら、やっていけるだろうか。


今夜は、いつも一人になると現れる不安が昨日なんかよりずっと大きくなって、私をすっぽりと呑み込んでしまうような夜だ。


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