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ヤニクラ

 休職することになった。経緯は以下の通りである。

 夏頃から身体と精神の不調は感じていたが、いよいよ耐えきれなくなり職場のカウンセラーのところへ駆け込んだ。それでも仕事は変わらずやらなければならないし、慢性的不定愁訴のような体調不良は続くため、上司に泣きつき、仕事を休んで病院へ行かせてもらえることになった。体を壊した際に病院へ行くなど人間として当然の権利であるが、畜生である私めが仕事を休むなど上司の温情無しには考えられぬことであり、30半ばにして頭皮が露出している上司のゴキブリのように下品に黒光りしている革靴に接吻し「病院へ行かせてもらえる」ことへの感謝の意を表す必要があった。

 どうせ自律神経が失調しているのだろうなとの雑な自己診断の下、とりあえず内科へ行ってみることにして大きな病院の門を叩いた。私のような畜生の拳ではびくともしない立派なレンガ作りの門柱をがんばって叩いた。こういうときに叩く場所は、金属製の棒が数本くっついてできた扉か門柱か、どちらが正しいのだろう。この手の扉は牢屋のようで、人類に根源的恐怖を与えるから苦手だ。扉は開いていたし外力を加えるとニュートンの運動方程式に従いギシリと動きそうな気配がしたため叩く場所として正しくないような気がした。叩くならばやはり頑強で不動のものに限る。門柱を叩く左の拳に血が滲み始めた頃、いつまでこうしていればいいのか、叩く場所は門柱で合っているのか、わからなくて泣きたくなってきた。半泣きで周囲を見渡すと、怪訝な顔でこちらにガンを飛ばしていたオジサン(後からわかったことだがこのオジサンは所謂守衛さんだった)と目が合った。オジサンはただ一言、「身分証を見せてください」と言った。

 内科の問診票に「めまい 立ちくらみ 偏頭痛 胸痛 動悸 下痢 不正出血 体が重い」と思いつく限りの現在の不調を書き並べたところ、看護師さんが飛んできて何故か診察を待つ間空きベッドで寝させてもらえることになった。座って数時間待機することすら難しいほどの病人というわけではないし、スーツがシワシワになって上司に怒られるなとも思ったが、好意に甘えて清潔そうなシーツの上に横たわらせてもらった。

 うつらうつらしつつ忘れられているんじゃないだろうか、と不安を感じながら待つこと3時間、ついに医者がやってきた。医者は、目線の動きや指の動きを見る検査だけを行い「重大な病気とかではないと思います」と結論にもなっていないような結論を述べて去っていった。去り際に「精神的な病気(笑)とかでは勿論無いと思いますけど、必要だったらうちのカウンセラーの所に通いますか?(笑)」と言うから、何故この人は半笑いなのだろう、私は常日頃から過食嘔吐しているが摂食障害は精神的な病気では無いのかと思ったが何か言うのも面倒なので「はぁ」とだけモゴモゴ言っておずおずと頷いてみせた。

 その藪医者が去った後、看護師さんに精神科の方にも行きたい旨を伝え、清潔そうなベッドから精神科外来の硬いベンチへと移動した。

 名前を呼ばれて診察室に入る。中には、ジャムおじさんのドッペルゲンガーがいた。ジャムおじさんのドッペルゲンガーは丁寧に私の話を聴き、内科で血液検査すらしなかったことに驚きつつ(やはりあの内科医は藪だ)、「仕事はしばらく休んだ方がいいねえ」と言った。会社に提出する診断書には、大きな文字で「適応障害」と書いてあった。

 この病院の内科医は薮だったけど、ジャムおじさんのドッペルゲンガーはいい人だったな、同僚にも精神を病んだ人がいたらジャムおじさんのドッペルゲンガーをオススメしておこうなどと考えながら、門柱の脇に佇むオジサンに一礼し、清々しい気持ちで駅への道を急いだ。今の私には、診断書という最強のカードがあるのである。ゴキブリのように下品に黒光りしている革靴を履いている頭皮が露出した上司、略してゴキブリハゲのことももう怖くない。

 帰りの電車を待つ間、午前7時から午後8時までしか営業していない終わってやがるセブンイレブン(7時から11時以外の営業時間の店舗にセブンイレブンを名乗る資格はない)で買ったパンとコーヒーを食べた。午前休しか取っていなかったが、時計はもう午後1時半を指していた。何が何でも今日から休みを取ってやるぞと固く決意し、アベンジャーズよろしく勇ましく肩で風を切って電車に乗り込み会社へ向かった。


 スキップしながらゴキハゲの元へ行くと、「お前本当に体調悪いのか」と私の艶やかな黒髪を羨ましげに睨んできたため、俺のターン!とばかりメディカルカードをドローし診断書を発動したらゴキハゲは爆裂四散した。勝負は一瞬で決まった。

 体調不良と抑鬱の治療に専念する代わりにしばらくの間不労所得を得られると正式に決まったのだ。


 帰宅後にベランダで吸った煙草はかつてないほど美味しかったが、慢性的な目眩にヤニクラのパンチが効き、夜の街がぐるっと万華鏡のように美しく回転した。

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