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巌流島訪問記

こんにちは。中洲大洋映画劇場閉館に落ち込む福岡とは縁のない神戸のサメ子でございます。

前回は中洲大洋映画劇場の素敵な体験についてお伝えしましたが、今回はその直前に訪れていた場所、下関の巌流島の旅行記をお届けしたいと思います。

決闘の聖地:巌流島へ

”遅いぞ!武蔵!”
”小次郎敗れたり!勝つ者が何ゆえに鞘を捨てるか”

もはやこの戦いを知らない日本人はいないと言っても過言ではないかもしれません。慶長17年4月13日、伝説の剣豪・宮本武蔵と剣の達人・佐々木小次郎の間で繰り広げられた決闘。その舞台が、私が今回訪れた巌流島です。

最近はフェリーにどっぷりハマっていて、その一環としての旅が始まりました(詳細は後日、時間ができたら改めて書かせていただきます)。神戸から新門司港へと向かう阪九フェリーに乗り、新門司からは電車で門司、そして下関へと進みました。下関からはバスに乗り換え、唐戸へと向かいました。唐戸からは巌流島へのフェリーが運航しています。

👇️こんな感じ。巌流島へのフェリーがまだ出発していない時刻だったため、周囲は静かで人も少なかったです。

👇️そう!巌流島は決闘の聖地だ!!
プロレスでもわざわざ巌流島で戦った試合があるとか…(笑)

👇️50人くらい乗れそうな小型高速船です。大体10分くらいで到着します。

👇️そして到着!

島の訪問記に入る前に、先ほど簡単に触れた巌流島の決闘について詳しく説明します。

巌流島の決闘とは?

1612年4月13日、慶長17年の春の朝、運命が二人の剣士を巌流島の舞台へと導きました。一方は後に「五輪の書」でその名を世界に轟かせる宮本武蔵、もう一方は日本を代表する剣の達人、佐々木小次郎です。この歴史的な対決は、日本の剣術史を彩るだけでなく、武士道の精神を現代に伝える象徴的なエピソードとして広く知られています。彼らの決闘は、吉川英治の小説「宮本武蔵」や内田吐夢監督の映画「宮本武蔵 巌流島の決斗」、さらには井上雄彦の漫画「バガボンド」など、多岐にわたる作品で紹介されました。

武蔵が意図的に到着を遅らせ、小次郎を怒らせることで彼の冷静さを失わせたこと、鞘を投げ捨てた小次郎に敗北を予告して挑発したり、さらに太陽を背にして小次郎の視界を悪化させるといった、武蔵独自の戦術が見受けられるなど、この決闘にまつわる有名なエピソードは多数存在します。

しかし、「武蔵は実際には遅れていなかった」「小次郎は70歳を超える老人だった」といった様々な説も存在したり、なぜこの地で対決が行われたのか、戦いの詳細には不明な点が多いことも事実です。それでも、400年以上前に巌流島で二人の剣士が激しい戦いを展開したことは間違いありません。。

さて、訪問記に戻りましょう。

何も無い!!?巌流島

巌流島はレストランや売店はもちろん、自販機すらありません。本当に何もありません。

👇️ずっとこんな感じです

👇️よくある大きめの公園といった感じでしょうか?

途中、写真スポットも👇️

巌流島から望む関門海峡👇️

👇️舟島神社という小さな神社もあります

実は、巌流島は第二次世界大戦前から日本軍の要塞地帯の一部とされていて、上陸はもちろん、撮影も一切禁止されていました。その結果、その時代の島の風景写真はほぼ残っていないのです。映画のロケ地として使うなんてことも、当然ながら不可能だったわけです。

しかし、2003年に大河ドラマ「MUSASHI」の放送をきっかけに、島を所有していた三菱重工業が島の大部分を下関市に譲渡し、観光地として整備され、一般の人々が訪れるようになりました。

そういうわけで、巌流島の観光地としての歴史は比較的新しいんです。観光地としてまだフルに活用されていないのは確かかもしれませんね。だからこの島には何も無い状態なんでしょう。しかし宮本武蔵という世界的に有名な人物の決闘地としての魅力は十分。今後、国内外の観光客にさらに楽しんでもらえるような取り組みが期待されますね。

そして二人の銅像と対面

島を歩くこと数分…いよいよ…

👆️出た!宮本武蔵と佐々木小次郎の像だ!

小高い丘の上にこの二人の像はあります。

下に名前が書かれたプレートがあるけれど、それがなくても、どちらが武蔵で、どちらが小次郎かは一目瞭然です。これほどまでに彼らの姿が象徴的で、知られているということでしょう。

像の目の前には巌流島の歴史を書いた看板?が👇️

歌碑も👇️森重香代子さん作

巌流島にあるこの二人の銅像以外にはあまり見どころがないと言っても過言ではないかもしれません。だから、私はこの銅像の撮影に夢中になってしまいました(笑)

不思議なことに、スマホ(iPhone11 Pro)で撮ると写真が鮮やかになるのに対し、デジカメで撮るとなぜか色合いが控えめになります。なぜだ?

👇️さっきまでの写真と像の色が違うでしょ?


そんなことを考えながら、ずっとシャッターを切っていました。

👇️逆光も良い

望遠で👇️

👇️像の横には武蔵が乗ってきたとされる船を再現したものがあります。雨風にさらされてもうボロボロ(笑)

なぜ巌流島という名称?

実は「巌流島」は通称で、正式には「舟島」といいます。島の形が船を思わせることからこの名がついたそうです。一方で、「巌流」という名前は、敗れた佐々木小次郎の流派から来ています。通常、勝者の名が地名になることが多い中、敗者の名前を取って「巌流島」と呼ばれるのは珍しいですね。もしかしたら、「武蔵島」や「二刀流島」と呼ばれることもあり得たかもしれませんが、歴史が選んだのは小次郎でした。

👇️興味深いことに、島には小次郎を偲ぶ慰霊碑も存在します。

逆に言うと武蔵の勝利を称えるものが何も無いとも言えるでしょう。なんとも不思議ですね。

巌流島は坂本龍馬も来てた!?

慶応3年(1867年)に下関で新生活を始めた坂本龍馬とお龍が、密かに巌流島へ渡って花火を楽しんだという話があります。お龍が後年にこのエピソードを語ったそうです。

長崎、鹿児島、下関…どうやら最近、私が訪れる場所にはいつも坂本龍馬の足跡があります(笑)

島に滞在して1時間ちょっと私はフェリーで島を後にしました

巌流島の物語は、まさに時の流れを越えたロマンスと武士道の精神が交錯する場所。宮本武蔵と佐々木小次郎の伝説の決闘から、坂本龍馬とお龍が夜空に花火を打ち上げたというエピソードまで、この小さな島には大きな歴史が息づいています。

レストランや売店の建設、アクセスの改善などが行われれば、巌流島は国内外からの観光客をさらに引きつけることでしょう。

武蔵や小次郎にまつわる物語が今後も人々を魅了し続けることは間違いありませんから、巌流島の魅力を世界に広める機会はまだまだ多くありそうですね

それでは皆様、シャークと共にあれ(May the Shark be with you🦈🦈)

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