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【ワーホリ日記】学歴至上のわたし(たち)

ワーホリ、私にとって初めての海外長期滞在を始めてから既に3ヶ月が経過した。

こちらに来てから概して日本人、というかアジア人は学歴を気にしすぎだ、と感じていた。

確かに名の知れた大学に入る、その努力は凄いものだ。
しかし、名の知れた大学に行くことは手段であって目的では無い
結局そこで何も身につけないまま卒業したら意味は無い──────大学生の本分は学問では無いのか。大学の名前だけでは何も意味は為さないのではないか。

だが、多くのアジア人にとってはそうでは無いらしい。

語学学校1日目、オリエンテーションの日に衝撃的だったのは隣の机で自分の出身大学名を自慢しているらしき日本人がいたこと。言葉を選ばずに言うならば、「ダサいな」と思った。

NZで初めて行った面接では韓国人のサブマネージャーに「あなた〇〇大学なのね!すごいじゃない!」と褒めちぎられた。
トライアルに進ませてもらったのに結局落とされたのは経験重視主義のNZらしく好きである。

CV(履歴書)配りをしていて訪れたアイスクリーム屋さん。Hiringのポスターこそあるものの経験者しか採用していないようだ。
ところが、マネージャーらしき中国人に「君〇〇大学なのか!感動したよ!絶対連絡するわ!」と言われて本当にその日のうちにトライアルに呼ばれ、しかもその後本当に採用連絡まで来てしまった。
(結局入れる時間の関係で働けなくなった。採用理由はあまり気持ちの良いものでは無かったが、非日本人経営のアイスクリーム屋さんでの接客はしてみたかったことのひとつではあるので今でも働けなくなったことへの悔しさはある。)

私のflatのオーナーはタイ人だ。日本に来たことがあり、少し詳しい。私が「〜の近くの大学に通っているんだよね」と話したら「じゃあ〇〇大学?すごいじゃん!」などといろいろ言われた。どうしてそんなことを知っているんだ、と思った。

語学学校の授業後、カフェテリアでよく話をする日本人の友人たちは自分の大学や受験事情をよく話題にしていた。NZに来てまでそんなこと引きずってどうする、と思った。

ずっとクラスが同じで何だかんだ仲の良かった中国人生徒は、彼にとって語学学校の最後の日、先生の話を無視して私に日本の難関大学について滔々と語り続けた。
あの狂気じみた目の輝きと口調はどうやっても頭から離れない。

私が休学中の大学生であるという事情も相まってか、こちらに来ている日本人にはやたら「大学どこ?」と聞かれる。
しかし私は自分からは決して口にしない。それは「〇〇大学の」私ではなく「私」という個人を見てほしいからだ。

語学学校の友達に聞かれる度に「ごめん、言いたくないんだ」と言っていたが、いつからかピタッと聞かれなくなった。言いたくないんだというのがやっと伝わったんだな、と嬉しく思っていた。

しかし、語学学校を卒業して初めて、私は真相がそうでは無かったことを知った。
彼らは私の大学を知っていたのだ

経緯は分からないが、どこからかある生徒が私の大学を特定し、他の人に触れ回っていたことを最近になって私はようやく知った。彼らは私の大学名を話題として消費しきったあとだった。
それを理由に私に対して直接いろいろうるさく言われることがなかったのは幸いだが、残念ながら私の大学名を明らかに気にして話す友人はいる。私は私という人間そのものを見てほしいのに。


一方私も私で学歴に取り憑かれていたのは事実だったのだろう。

第一志望の大学に運良く受かった私は、見える世界が広がった、世界というのは案外心地の良いものだと感じていた。

しかし、それは「〇〇大学」から見える世界でしかなくて、入学試験によって選別された「〇〇大学」という知的レベルが同様の人間によって形成された世界であるために生まれた心地良さに過ぎなかった。

大学の後ろ盾を受けずにNZに来た私は、何も無い空っぽの人間だった

大学名を言ってもローカルの人は一切反応することはない。大学名なんかより、何を身につけたか、何ができるかが大事。これが本当の経験重視社会だ。

大学名以外に誇れるもののない私は、面接にもトライアルにも落ち続け、妥協に妥協を重ねていくだけ。
大学というスコープを通さずに見るNZの世界において、私は1人の無能でコミュ障な異国人に過ぎない。それを変えられる程の勇気も力もない、ダサい人間だ。私に誰かをダサいと表現する資格など、無かったのだ。

最初この記事のタイトルは「学歴至上主義のアジア人たち」にする予定だった。
でも、違った。そうではないアジア人だって、たくさんいるのだから彼らに失礼だ。

学歴という魔物に心を喰われ切っていたのは、わたしだったのだ

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