立場茶屋と中山道の香り
もはや、18きっぷ旅でも何でもない私の旅は順調に続き、最終日は木曽八景の1つである「寝覚の床(とこ)」へ足を運んだ。
龍宮城から戻った浦島太郎が、放浪の末にこの地を訪れ、玉手箱を開けて「目が覚めた」という言い伝えから、その名前が付いたらしい。今も伝説を語り継ぐ「浦島堂」が残っている。
朝の出発時。体の半分ほどあるリュックサックを預けようと旅館にお願いしたら、「もちろんお預かりしますが、木曽福島駅前の観光局でも無料で預かってもらえますよ」とのこと。確かに、最後は列車で帰るので、駅に預けておいた方が便利だ。
▲木曽福島駅前
早速、観光局へ行き、スタッフに荷物を預かってくれと言うと、少したじろいだ表情を見せて「あ、あ、いいですよ」と。どうやら大っぴらにお預かりサービスをしているわけではないらしい。ただ、嫌な顔はせず、預かってくれた。ポストイットに名前と連絡先を書き、背中の重荷をどさっと渡した。
木曽福島駅から寝覚の床へは、上松(あげまつ)町営のコミュニティバスが出ている。木曽福島駅は木曽町だが、寝覚の床は南隣の上松町にある。バスは途中、地域重要拠点のAコープ、長野県立木曽病院、道の駅木曽福島を通り、20分ほどで「中山道ねざめ」の停留所に着いた。ここから現地までは歩いて10分くらいだ。
バスを降りてすぐ、目に入ったのは、100年以上の歴史はあるとみられるふたつの旧家だった。片方の家には「越前屋」の屋号が残り、軒先には「長寿そば」の看板も見える。中山道沿いの蕎麦屋として、旅人の胃袋を満たしてきたのだろう。
▲正面が越前屋
寝覚の床へ続く坂道を下りようとしたところで、もう片方の旧家から50歳くらいの男性が出てきた。「良かったら、家の中を見ていきませんか」と言う。
変体仮名で「たせや」と書かれた古い木板が飾られ、いわれのあるお家であることは間違いなかった。またとない機会だと思い、好意にあずかって、中を見せてもらうことにした。
ここ「たせや」は、江戸時代に街道沿いの「立場(たてば)茶屋」として栄えた場所で、当時は江戸に向かう大名や旅人の休憩所として使われた。今も大名や従者が休んだ部屋が残り、当時の宿帳といえる「天保九年 御大名様御休扣(ひかえ) 多瀬屋」「御殿様御休扣帳」と書かれた文書も数多く保存されていた。
「すごいじゃないですか!」 私は思わず感嘆の声を上げた。
大名部屋だけは、城の大広間と同じく、畳を真横に並列に並べてあった。隣の従者部屋より1段高く作られ、旅先においても格式を絶対とする当時の価値観をしのばせた。
▲大名部屋
▲従者部屋
「たせや」は、近代以後は民宿として営業を続けた。今は珍しい赤土の地面の両脇には、人々が座って休める場所があり、「店の者が打った蕎麦を、お客さんたちはここで食べていたようです」と主人の男性は言う。
家の居住空間は、高い屋根に太い梁が張り巡らされた雪国の様式だ。主人が「100年以上前の写真ですよ」と見せてくださったものには、さっき私がバスを降りた場所で馬車が行き交う様子が写っていた。生き生きとした当時の中山道の往来が、耳元に届くようだった。
▲民宿「たせや」の看板
「こんな貴重な文化財をそのままにしていてはもったいない」。感動しきりの私に、主人も「町と一緒に、観光センターとして使えないかと検討しているところ。ぜひ残して、1人でも多くの人に知ってもらいたい」と言う。
「また、来てください」
「次は家族と来ます。貴重なものをお見せいただき、ありがとうございます」
そう言って別れを告げ、本来の目的である寝覚の床を目指して坂を下りた。
ちなみに、向かいにあった蕎麦屋の「越前屋」は、国道沿いに移転して店を続けていた。見るからに美味しそうな店構えだったが、私が訪ねた時間はまだ開いておらず、仕方なく諦めた。
▲国道沿いに移転した「越前屋」
▲寝覚の床
寝覚の床を鑑賞した後は、中山道を歩いてJR上松駅へ行き、そこから一旦木曽福島に戻って、大阪へ帰った。上松駅前の漆器店では、漆塗りのワイングラスを購入し、主人(と私)へのお土産にした。
▲寝覚の床と特急しなの
▲寝覚の床へ続く坂道から見た、たせや(左の家屋)と越前屋