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やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?という話…に対しての反論。未来の希望としての邦ロック。

1.初めに


久々に開催されたサマーソニック(以下、サマソニ)でしたが、思った以上に様々な対立を生む結果となってしまった。
誰だったか覚えていないけれど、あるアーティストが「スポーツの試合には勝ち負けがある。しかし音楽フェスは参加者全員が勝者だ」と言っていた(気がする)。

しかし残念ながら現実の2022年の夏、日本での音楽フェスティバルに於いては、そんなハッピーな状況にはならずに、セクシャル・マイノリティや政治的なスタンスの立場の違いによる、大きな分断が発生する結果となってしまった。
本日は初投稿記事ですが、サマソニ開催中に話題になったあるブログ記事への思うことを綴っていきたい。

2.クリエイターに抱く幻想、夢について

やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?という話──サマソニにおける差別的な言動を通して(以下、本記事では「邦ロック聴いても」と略させて頂く


8月21日に公開され、このブログに対しての世の中の反応は様々だった。
匿名の一般人だけならいざ知らず、実名の知識人も複数人が反応しているのを目撃した。
どちらかと言うと、このブログに対して、批判的な意見の方が多い様な印象であるが、中には「よく言ってくれた!」「同じ意見です!」などの賛同的な意見もそれなりにはあった。
このブログの内容に賛同するかしないかは、是非上記のURLから、本文を読んで各自が判断して頂きたいが、
先に私の結論を述べるとすれば、私はこのブログの意見に否定的と言えると思う。

けれどもこういうことがあると、いわゆる「邦ロック」は、これまで世界中の音楽が積み重ねてきた表現や葛藤とはほとんど無関係に成り立っていて、社会性に無自覚で、そのくせ人より音楽が好きと自称する人のために生産されている思春期商売の肥大化みたいに思えてしまう。
やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?という話──サマソニにおける差別的な言動を通して

上述した件のブログ「邦ロック聴いても」で執筆者が仰りたい結論としてここだと思われる。
上の引用の理由から、邦ロックを聞く意味、あるいは価値はないという結論である。
私がこの記事を読んで感じたことは、彼(あるいは彼女かもしれないが)は、あまりに音楽(ひいてはポップカルチャー全般)に過大な期待をしすぎているということだ。
60年代にロックンロールは世界平和を実現するかも?という幻想が当時あったと聞いたことがある(まぁそれも嘘かもしれないけど)。
残念ながら執筆者は60年代から続く、その幻想に今も捕らわれていると言わざるを得ない。

例えば、記事の中盤あたりに欧米のポップミュージックが如何に現実の社会問題とリンクしているかが、箇条書きでつらつらと記されている。
書いてあることは全体的に正しいことであるし、私自身同じようなアプローチで欧米の社会問題に関心を持った経験は数知れない。
概ね欧米のポップミュージックと社会の結びつきや、それに伴う楽しみ方があるという主張には同意する。
但し、繰り返しになるが、彼(とここではさせて頂く)は、ポップミュージックを過大に評価しすぎている。

3.音楽は現実を凌駕しない。現実を写すだけ。

2020年にミネアポリスで発生したジョージ・フロイド事件に端を発した、「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」(実際には2013年からある運動であったが、日本では2020年に急速に広まった)。
この時、Apple Musicは画面が黒一色に統一され、ブラック・ミュージックしか聴けなくなった。
アップルはジョージ・フロイドの死を悼み、それに伴うBLMの一連のムーブメントに賛同した(Spotifyも同様である)。


こう書くと、やはり欧米の音楽と現実の問題がリンクしていて、上記のブログに書かれている通りじゃないかと思われそうであるが、
私が言いたいことは、このBLMというムーブメントが、実社会を震撼させ、かつ多くの現実に存在する人間を巻き込みながら大きなうねりを産み出したということ。そして、それは音楽がメッセージを発信するよりも前からあった現実の事象だということである。

Arcade FireやWilcoが歌うアメリカの政治の混迷から、アーティストが政治に言及する姿勢を知る。
やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?という話──サマソニにおける差別的な言動を通して


「邦ロック聴いても」の執筆者は、上記の様に書く。
「アーケイド・ファイアやウィルコの歌詞からアメリカ政治の混迷を知れる」としているが、大切なことは「社会問題への問題提起は、音楽が先にあるわけではない」という根本的な事実である。このよく考えてみれば当たり前である事実が、執筆者には抜け落ちている。
音楽はあくまで現実に発生した人々の起こしたムーブメントに付随しているに過ぎないということだ。
ドライかもしれないが、言ってしまえば音楽は現実を凌駕しない。音楽は現実を鏡の様な役割で写しているだけである。

社会(または、そこに住む市民)が社会問題を共有し、問題を提起する(それはSNS上での意思表明や、またはデモといった形で現実世界に表出する)。
その結果としてポリティクスやセクシャルマイノリティへの問題について言及した音楽が生まれいるのである。
音楽が先にあるわけではない。現実が常に先にある。

つまり邦ロックというものが、仮に執筆者が言う通りに「聴いても聴いているうちに入らない」という言説が正しいものだとするならば、
それはそもそも論として、「日本社会が政治的なもの、性的少数者に興味がない社会」または「政治的、性的少数派の為のムーブメントがまるっきり存在しない社会」だということの写鏡であるということが言えるはずだ。
社会というものの存在なくして、カルチャーは成立し得ないのだから。

忘れてはならないことはもう一つある。
「政治的ではない(ノンポリである)ということ」も実は政治的な一つの立場であると言うことだ。
主張がないということから、その社会の背景を知ることもできるし、その社会が抱える問題について考えることは幾らでも可能だ。
物事を単純化して考えるのは簡単であるし、分かりやすいが、当たり前のことながら人間というのは1か0かではない。
白と黒の濃淡の上を、絶えず立場を変えて移動している生き物だ。
一見、ノンポリに見える邦ロックアーティストも、実生活においては政治的(または性に関する)主張が全くの0というのはあり得ない(その主張を作品に反映させているかはさて置き)。
生きている人間である以上、何かしらの思想を各々が有している。
むしろそう言った楽曲を、いわゆる邦ロックアーティストがなぜ発表をしないのか?されないのか?という疑問を持つ方が遥かに建設的な批評であるはずだ。

正直、このブログの内容ではただ単純に欧米のカルチャーが優れているという夏休みの自由研究みたいなものである。
それが本当にただの自由研究で、体育館や教室の後ろに張り出されるだけならば何の問題もないが、インターネット上で不特定多数の人の目に触れる可能性を鑑みるならば、やはり言葉足らずであるし、深掘りが足りないと感じてしまう。

4.邦ロックなりの社会問題との距離感があるはず

明治維新で近代化を成し遂げた日本という国家は、その歴史に於いて(少なくとも近世以降)市民革命が存在しない。
明治維新は武士(後の士族階級)が起こした革命で、彼らは戦国時代より続くエスタブリッシュメントの末裔たちである(更に言えば彼らが明治維新で打倒したのも、同族の武士階級(徳川幕府)だったのだから、革命といっても、アメリカ独立戦争などの市民が実際に戦闘を行った、市民革命的なものとは遠くかけ離れている)。
それは戦後も薩摩長州の末裔たちが多く存在する、我が国の政界の状況を見れば、分かり切った事実である。
それぞれの国ごとに社会との距離感は違うし、民主化した経緯も異なる。
市民革命が存在しないからと言って、日本の民主主義が未成熟であるとかそういう話をするつもりはないし、それはまた別の議論であるが、ひとまず日本には市民間(勿論、私自身も含めて)で日常生活で社会問題をディスカッションする様な文化はあまり見られない。
欧米と日本で一致していることは、結果として民主主義の国家になったということだけで、成り立ちが違うならば内実がそれぞれに違うのは当たり前のことだ。
そして、音楽と社会との関わり方も当然異なるということを、改めて認識する必要がある。

「邦ロック聴いても」の執筆者がいう欧米のポップカルチャーは確かに素晴らしいものだし、私自身も大好きだ。
だけれど上記の様な歴史的なプロセスをすっ飛ばして、日本のミュージシャンも西洋と全く同じ立ち振る舞いを求めるのはナンセンス過ぎる。
忌野清志郎、坂本龍一、最近ではアジカンの後藤正文、SIRUPなど、いわゆる欧米的といっても差し支えないであろう積極的なリベラル的な発言をしているアーティストもいるが、誰もがそうあるべきだとは私は思わない(忌野清志郎の様に、そうであるミュージシャンの否定もしない)。

正解や理想というものが特に今の私の中にあるわけではないし、明確に示すことができない為、記事のオチとしてはかなり中途半端であるが、日本人には日本人的な社会問題に寄り添ったメッセージ発信の仕方がきっとるはずである。
メッセージの発信という部分では、欧米のアーティストには出遅れているかもしれないが、それを邦ロックは今まさに模索しているじゃないかと思う。

5.結論、まとめ的なもの

最後にまた繰り返しも多く含むが、結論めいた部分ももう一度書いてこの記事を終えたい。
邦ロックが社会問題に意識的ではないのは、日本社会の問題である。
そこに目を向けずのクリエイター批判はあまりに安直過ぎる。分かりやすい、目に見える批判の対象を叩いているだけだ。
社会は音楽で変わるのではなく、一人一人の意識の中にある「変わらなければならない」という問題意識から変わっていく。
音楽は一人一人の心を奮い立たせるが、元から存在しない決意や意志を燃やすことはできないのだから。
私が望むのは、建設的な議論が活発に行われる日本社会であるし、それが実現するならば、自ずとポリティカル、またセクシャル・マイノリティに言及したロックンロールはきっと増えるはずだと信じている。

最後になりますが、今回初記事で、noteも初めてであった為、お見苦しいところもあるかと思います。
またある程度下調べはしておりますが事実誤認が含まれる可能性もある為、そう言った部分があった際はお手数ですがコメントなど頂ければ幸いです。

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