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ジョン・レノンの1980年12月。本当にレノンは保守化していたのか?

1.ジョン・レノンが死んだ日


1980年12月8日(月)の22時50分頃のこと。
ニューヨーク市マンハッタン区のダコタ・ハウス(集合住宅)の入り口付近。
ラジオ局でのインタビューを終えて帰ってきた、ジョン・レノン とオノ・ヨーコ夫妻。
眼鏡をかけた男に突然呼び止められたレノンは、その男に拳銃を3回発砲された。
1発は遥か頭上にそれていき、ダコタ・ハウスの窓を割るに留まったが、残りの2発はレノンの体に命中した。
運び込まれた病院にて、23時前には彼は息を引き取った。
病院のラジオからは、元ビートルズの相棒である、ポール・マッカートニー作曲の「オール・マイ・ラヴィング」が流れていたという。

ローリング・ストーンズのキース・リチャーズはレノンの死を知ると拳銃を手に取り「ジョンを殺したやつをぶっ殺してやる」と怒りを露わにしたという。
長らく冷戦的な関係であったのポール・マッカートニーも、レノンへの哀悼の意を表し、そしてソロアルバムにて追悼歌を発表した(実際のところ、70年中盤からは、彼らの関係はかなり回復に向かっていたというのが通説ではあるが)。
マッカートニー以外の元ビートルズのメンバーも同様である。

2.平和の使者としてのジョン・レノン

さて、1980年から気がつけば42年経った訳でありますが、昔からジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンはスケープゴートであり、実際はFBIの陰謀だとか(そもそもオノ・ヨーコがそう主張していたはず)、定期的にビートルマニアの間では(頻繁ではないにせよ)話題になりがちな話。
今年起きた某元首相の暗殺、そしてさらにレノンより遡ること17年、ケネディ暗殺事件のオズワルドについてなど、こういうのは陰謀論者の槍玉に上がりがち。
レノンの人生はとにかくドラマチックで、事実がどうであれ、一つの物語として彼の人生を捉えるならば、FBIの策略で政治的に抹殺されたとすると、話のオチとしてこれほど美しいものはないとすら思える(当然、殺人を美化しているわけではないことは断っておきたい)。


レノンは60年代より、その反戦活動をアメリカ政府(ニクソン)に目をつけられており、盗聴と監視、さらには常にアメリカからの国外退去を画策されていたという。
これはビートルマニアの間では有名な話であるが、レノンを含めたビートルズメンバーのアイドルと言えるエルヴィス・プレスリーは、レノンを毛嫌いしており、ニクソンに度々レノンの国外退去を打診していたとか。

3.保守派としてのジョン・レノン

さて、2011年にある意味衝撃的なニュースが報道されたことをご存知でしょうか(と言いつつ、当の私自身は何年も後に知ったのだけど)。

70年〜80年代にレノンのアシスタントをしていたと言うフレッド・シーマンという人物は上の記事にてこう語る。

シーマンは「ジョンは自分がアメリカ人だったら絶対に(共和党の)レーガンに投票すると明言していて、それはジョンが(民主党の第39代大統領)ジミー・カーターを酷評していたからなんです」と語ったとジャム・ショービズが伝えている。
1980年時点のジョン・レノンは共和党のレーガン大統領に投票していたはずと元アシスタントが語る

すごく大まかな説明をすれば、共和党は右派(保守政党)で、対する民主党は左派(リベラル政党)である。
勿論、話はそんなに簡単ではなく、共和党の中にも比較的リベラルな人間もいるし、民主党も以下同文である。
近年の大統領の名前を例を挙げれば分かりやすいかもしれない。
ドナルド・トランプは共和党で、バラク・オバマは民主党(現職のジョー・バイデンも民主党)。
因みにこれは余談であるが、黒人奴隷解放で現在のアメリカでも高い人気を誇るエイブラハム・リンカーンは共和党の人間である。
現在の共和党という政党のイメージからすれば非常に意外に感じるし、実はどちらかと言うと160年前までは共和党こそが人権意識の高い政党だった(ネイティブ・アメリカンに対してはまた別であるが)。
共和党の変換期は世界恐慌の頃で、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領がニューディール政策で所謂、リベラル的な政策を推し進める中で、そのアンチとしての保守派としての共和党のアイデンティティが確立されていった。

話が逸れましたが、上記のレノンが支持していたという、レーガン元大統領は共和党の政治家で、言ってしまえばバリバリのタカ派として有名な人物。
60年代後半から70年代中盤にかけて、ラブ&ピースを歌い続け、反戦運動にも積極的だったジョン・レノンという人物のパブリック・イメージを知っていると少々面を喰らうかもしれない。

さらにシーマンはこう続ける。

「1979年から80年にかけてのジョンは“イマジン”を書いた頃と較べてまったく違った人になっていましたね。1979年のジョンはそんなかつての自分を振り返っては、その当時のナイーヴさを恥ずかしく思っていたようです」
1980年時点のジョン・レノンは共和党のレーガン大統領に投票していたはずと元アシスタントが語る

レノンについて調べると「失われた週末」という単語に行き着くことがある。
これは1973年10月から1975年1月のオノ・ヨーコとの別居期間中のことを指す。
この期間のレノンはとにかく飲んだくれて、自暴自棄な生活を送り、かなりはちゃめちゃなライフスタイルだった様です。
但し、音楽的には「マインド・ゲームス(旧邦題:ヌートピア宣言)」「心の壁、愛の橋」と言った、超名盤という評価はされないまでも佳作といえるアルバムをリリースしている(私は「マインド・ゲームス」が一番好きなソロアルバム)。

そんな時代を終え、再びオノ・ヨーコとの関係を修復させ、二人の息子ショーン・レノンの子育てのために音楽活動を停止させたジョン・レノン。
そして育児をひと段落させて、久方ぶりに発表され復帰作が1980年のアルバム「ダブル・ファンタジー」だった。

元々「失われた週末」時期に発表された2枚のオリジナルアルバムや、レノンが10代の頃に熱中していたロックンロールをカヴァーしたアルバム「ロックン・ロール」など、明らかに年々彼の作品からは政治色は薄れていき、パーソナルな内容であったり、純粋なロックンロールへの憧憬を打ち出した作品が多かったのは事実。
これは何かの本で読んだだけなのでエビデンスがないのだけれど(調べたが記事などもヒットせず)、レノンはFBIや米国政府からの干渉に疲れ、政治活動から距離を置きたがっていたというのは聞いた記憶がある。
そう言った私の記憶だったり、彼を取り巻く政治的圧力を考えると、案外彼が当時の政権である「レーガン政権」を支持していたという心境の変化は割りかし作り話ではない様な気がしてしまうのだ。

現在でこそ、レノンは「世界平和を歌ったロックアーティスト」として認知されているが、元々彼はリヴァプールの名の知れた不良少年で、近年も息子ジュリアン・レノンに対しての厳しい躾という名の暴力が明らかになり、話題にもなった。

4.まとめ的なもの

彼が平和活動に従事したきっかけは、彼の元からあったパーソナルな感情や政治思想というよりかは、オノ・ヨーコからの影響が大きかったと推察できるし(彼の代表曲「イマジン」はオノ・ヨーコの詩集「グレープフルーツ」の内容から着想を得ている)、
彼について知れば知るほど、どちらかと言えば本来はタカ派的な人物ではなかったのか?と思ってしまう(勿論個人的な想像の域を出ない考えですが)。

とは言え、最後のアルバムでおる「ダブル・ファンタジー」に収録されている「ウーマン」に於いては、曲の冒頭で中国の政治家である毛沢東の詩を引用しており、彼の後半生が根っからの保守派、反共という様な政治思想に染まったわけではなさそうではあることが分かる。
ただしそれも1980年時点の話であるし、彼がその後も何事もなく現在も生きていれば、どの様な曲を歌っていたのか非常に気になるところ。
例えばニール・ヤングは過去から一貫して現在もプロテスト・ソングを発表している(そして彼は一貫してリベラルだ)。
生きていると突然、思想の拠り所が変わってしまうことは多いとは言わないまでも、全くない話ではない。
レノンが存命だった場合、今でも彼は平和の使者であり続けたか、それとも或いはトランプの為に曲を作っていたのか。
それはもう誰にも分からない。

※後に、トランプ陣営が楽曲の使用料を支払ったからという理由で、ニール・ヤングはトランプの楽曲利用を承諾する声明を発表した。

個人的なまとめめいたものを、最後に書いておく。
私は彼の大ファンではあるが、「平和の使者」的な彼のイメージが取り立てて好きなわけではない。
平和の使者であり、暴力的であり、ナイーブでカリスマ性のある、彼のその複雑さこそが、ジョン・レノンの凄みだと思っている。
ある意味「保守派だったかも知れない彼」の姿もまた、ジョン・レノンの複雑さの一つでしかないのだ。

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