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中学生への現代文指導のあれこれ

学習塾で公立中学校の平均的な(学校で平均点を取るくらいの)生徒に現代文を教えるのはなかなか難しいです。生徒や保護者の方の多くは定期テストや受験で高得点を取ることを、あるいは落第点を取らないことを期待して受講しています。


しかし、日本語を母語とする中学生が中学生用に作られた国語の教科書を読む以上、本来なら読めるように作られているのではないかと思います。そこまで難解な文章を読むことが要求されているわけではありません。そこで「実は読めていないのではないか」「それはなぜか」が出発点になるはずです。つまり、生徒や保護者の方は「日本語は読めるのだから、テストで扱う文章さえ解説してくれればよい」と思っていても、問題はそこではない場合が多いということです。


なぜ母語であるはずの、それも特殊な予備知識があまり必要ないであろう文章をうまく読めないのでしょうか。それは思考を言語でクリアに表す習慣がないから、というのが一つの答えになるでしょう。「AはBである。なぜなら、AはCだからである。よって、Dである」のように論理をたどって思考することが習慣として行われていないのです。その他の原因も考えられますが本稿では除外します。


もちろん日常生活において私たちは「右足を出す。なぜならば、その直前に出したのは左足だったからである。それゆえ、右足の次に出すのは左足である」のように考えて歩いているわけではありませんし、そんなことを考えていたら散歩もできません。また生徒は日常のレベルでは十分に論理的に行動します。「雨が降りそうだな」と思えば「傘を持っていこう」と判断することもできるし、それを実行することもできます。


では何を苦手にしているのかといえば、それは論理を言語の形で扱うことです。あるいは、文章の中に表れている論理を読み取ることです。つまり私が塾で中学生に国語を教えるときの長期的目標は、文章を素材として言語で論理を扱うスキルを身につけてもらうことになります。自然言語はかなり曖昧なところがあるので、数式や、そうでなくても極力テクニカルタームを使う方が厳密だという議論はありましょうし、それはそれで妥当なものですが、まずは母語で書かれた比較的平易な文章を扱うのが現実的でしょう。そして論理を言葉の世界で扱えるようになれば、定期テストや高校入試で扱われる文章も自ずと読める……はずです。解答を作るとなると、それだけでは難しいのですが。


では、具体的にどうするか。


まず、指示語と接続語を理解しなければなりません。指示語というのは「あれ」「これ」「それ」「そのような」「そういう」などの語です。接続語は「だから」「しかし」「つまり」「たとえば」「では」「ので」「であるが」などです。接続詞や接続助詞のほか、「一方で」「例をあげると」のような表現も含める方が便宜かもしれません。


私が見聞きする範囲では、ごく簡単な例文を読んで指示語が指すものを答えたり、接続詞を入れたりする問題はほとんどの生徒が答えられます。「『だから』と書いてあったら前後に何が書いてあるのか」のような質問をしても(生徒自身がうまく説明できるかは別として)理解してもらえます。


しかし、実際に文章の中で指示語や接続語を意識してもらうのは難しいようです。「接続語とは」を説明し、その上で「接続語を見たらマークしなさい」と口を酸っぱくして言い、さらに自分でやって見せても、マークしない生徒の方が多数派だと思います。「それはお前が信頼されていないからだ」と言われればそのとおりかもしれませんが、「〇〇をやってくれ」と言ってそのとおり実行する生徒はそれほど多くない、と言わざるを得ません。だから指示語や接続語については「指示語が指すものは、普通、指示語より前に描かれている」などと理解することそれ自体と並び、「指示語が指すものや接続語の役割に意識的になる習慣をつけること」が重要な目標になるでしょう。


続いて理解する必要があるのは「対比」「言い換え」などを読み取ることです。たとえば日本とヨーロッパを対比して論じるとか、ある言い方を別の言い方で説明するとかの方法論はたいていの現代文参考書に載っていると思います。これも説明すれば理解してもらえますし、「この文章は何と何とを対比しているか」と聞けば正しく答えてもらえるはずです。しかしやはり、自分で読むときに意識する習慣をつけるのは難しいです。読むときの生徒の思考が漠然としてしまっていて、クリアに思考するのが難しいように思われます。もしかしたら文章の内容に手一杯で指示語や接続語に意識を向ける余裕がないのかもしれません。


ひとつの到達点として「筆者はここで問題提起をし、つぎに問題の具体例を出しているな。その次に解答を提示し、その解答に対し予想される批判に再反論し、最後にまとめている」のように文の構造をつかんでほしいと願っています。相手の言っていることを抽象化し「この人はつまりこういうことを言っている」と理解する能力は大人になってからも非常に大切です。ただ、そこまで達する中学生は私の見聞きする範囲ではごく少数です。いわゆる難関校を受験する生徒であればそのような読み方ができる方が普通なのかもしれませんが、そこまで達しなくても合格する高校の方がおそらく多いでしょう。これは中学生の知的能力でその状態に達することが難しいということではなく、彼らがその必要性を感じていないのだろうと思います。必要性を認識してもらえないところは、私も含め大人にも責任があるでしょう。


本稿の範囲を外れますが、高校生が読む論説文はかなり抽象度が高く、多くの生徒が「今までそんなテーマについて考えたことはなかった」という顔をします。そのような文章を通じて、これまで考えたことがなかったことを考える経験をしてほしいと思っています。たとえば「モノがあって、そこにラベルを貼るように名前がついているのではなく、むしろその言語が何にどのような名前をつけるかによって、どんなモノを認識するかが異なる」との考えは論説文の世界ではよく見かけるものですが、日常生活で自然にそう考える機会はまれでしょう。「そうだったのか」「でも本当にそうなのか」「この著者の言っていることは説得的だ/説得的でない」などを問題を解き終えた後でも考えてほしいと思っていますが、これはそう簡単にはできません。生徒の多くは日々の思考をするときに論説文から影響を受けたりはしないように見えます(私の勘違いであれば、その方がよいですが)。


ふだん何を考えるかは生徒の自由には違いありませんが、せっかく新しい考えに触れたからには、日常生活とはさほど関係ないであろう問題にも思考を使ってほしいと思います。これをどう達成するか(あるいは達成した方がいいのか)が私にとって今後の課題の一つです。


現代文の指導は英語や社会とはまた違う難しさがあって、私も自分の授業が「ものすごくうまくいっている」とは思えません。しかし言い訳じみますが、プロというのは「うまくいかないことに悩む人」だと思います。どんな職業もすべてが完璧に進むことはおそらくないでしょう。そのうまくいかないところに悩み、いろいろやってみることがプロの仕事の一つではないでしょうか。私もまだまだ勉強して充実した授業を作っていきたいです。

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篠田くらげ
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