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『孔子に図星を突かれた愛想のいいやつ』の回

なんだか会話が上手くいかない人っている。向こうから話しかけてくれるはいいが、それに対するこちらの返答にはめちゃくちゃ反応が悪い。何か話しかけられる、それに答える、スンって顔をされる。会話のキャッチボールにならない。こちらの返答は全て吸収される。ノックですか? 頼んでもないのに急にノック始まってます? こちらは守備位置に着いてもいなければ、おえええい!とか声を出してボールを呼んでもいないのに。しかし、世の中には色んなタイプの人間がいて、わたしが苦手としている人相手に難なく会話をこなす人もいる。そして、わたしと同じようにその人との会話が苦手という人であっても、わたしとの相性がいいとは限らないのである。人間、色々ある。

かの有名な思想家、孔子は「巧言令色鮮なし仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という言葉を残しており、愛想を振りまくような人物には仁が足りてない、つまりは人を思いやる気持ちがなくて軽薄な人物が多いと言っている。そんな孔子は同時に「剛毅木訥仁に近し(ごうきぼくとつじんにちかし)」といった言葉も残しており、こちらは、意志が強くて無口で無愛想な人は人格者であることが多いことを意味している。孔子は口数が多くて愛想の良いやつよりも、無口で愛想の悪いやつのほうが気に入っていた。

孔子の生きていた春秋時代から数千年が経った現在においても、これらの言葉が風化せずに残っているのは、それなりに含蓄のあるものであったことを意味するのだろうが、これを言われた孔子の弟子たちは一気に振る舞いが難しくなったりしなかったのだろうか。ましてや肝心のお師匠様である孔子自身がわりとおしゃべりな人物だったとしたら。「見て。新しい帽子」「あ、買ったんですね」「前のやつ結構長いこと使ってたからさあ。どう? これ」「めちゃくちゃ似合ってますよ。前のも良かったですけど、こっちはこっちで今の季節にピッタリって感じで」「・・・。自分、巧言令色鮮なし仁やな。教え守れよ」とか言われたら、もうがんじがらめになってしまう。お師匠様、それは難しすぎます。急にハンドル切りすぎです。

反対に孔子自身が剛毅木訥仁に近しを忠実に守り、無口で無愛想だったとしても、それはそれで嫌である。何か質問とかをしても無視されそうな気がして、いちいち緊張してしまう。「巧言令色鮮なし仁」はあくまであるある的な話であり、絶対ではない。愛想を振りまくような人物には仁が足りていない者が多いというだけで、愛想を振りまいている者はみな仁が足りていないやつだというわけではない。世の中、普通に愛想が良くて気さくで、優しい人格者もいるのである。ただ、普通に愛想が良くて気さくな人が優しかったら、それはもう普通に良い人なだけで、わざわざ言葉に残すほどのことではない。だからこそ、そうではないインパクトのある極端なケースを表現したものが残っていくのだろう。ましてや、気さくで優しいだけでなく、頭も良くて、スポーツもできて、イケメンで、身長も高くて、お金持ちの人物だっている。世の中そんなやつらだらけだったら、やってられない。そうじゃないやつらに勝ち目がなさすぎる。それよりもむしろ、巧言令色鮮なし仁なやつらがいっぱいいてくれた方が、剛毅木訥なほうはまだ勝ち目があります。そういうことです。そして、最終的に孔子って本当にどっちのタイプだったんだろうと気になる。・・・。どっちでもないちょうどいい感じの人であってくれ・・・。それが一番だから・・・。


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