ネット選挙とインターネットの普及
2020年、「5G」を用いた商用サービスも続々と展開される中、最新技術を駆使できる者とそうでない者の差が、これまで以上に顕著になりつつある。
本記事では、これまでのインターネットの普及の歴史や、混在する問題、2020年06月の東京都知事選挙に向けて提言された「ネット選挙」など、広く見渡した上で今必要なことは何なのか、昨今実際に起こった事例も交えながら意見を述べていきたい。
インターネット普及の歴史
まずは、日本におけるインターネットの歴史を簡単に振り返ってみよう。
(※は各回線の通信速度)
("bps"は毎秒の通信速度、K=キロ、M=メガ、G=ギガ)
インターネットというものが日本で始まったのは1980年代後半、当時は大学や企業のみが業務上の通信などで利用できる程度であった。1990年代中頃には、一般加入者回線(アナログ回線、ISDN回線)でのダイヤルアップ接続の普及が進んだ。検索サイトとして日本で名を馳せた「Yahoo!Japan」が始まったのが1996年04月、ちょうどこの頃だ。
※アナログ回線:~56Kbps
※ISDN回線:64~128Kbps
1990年代後半には、大容量常時接続サービスとしてADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line:非対称デジタル加入者線)の一般向けサービスが開始されたが、当時は利用できる地域が限られる通信手段であったため、全国に普及するに至ったのはブロードバンド元年と云われた2001年である。(それでもまだ全国の隅々までというわけでは無かった)
この頃から、大容量常時接続を前提としたサービスが続々と登場する。
1998年には、すでに松井證券がネット取引(インターネットで株などの有価証券取引)を開始していたが、1999年に入るとインターネットでの取引専門の証券会社がいくつも設立され、サービスが開始された。あの有名なインターネット掲示板「2ちゃんねる」ができたのもこの頃、1999年05月である。
※ADSL回線:下り=~50Mbps、上り~12.5Mbps
(実際の速度は地域やプロバイダで差が大きく出ていた)
日本で光ファイバー通信(光回線)が一般的に広まり始めたのは2003年、「auひかり」というサービスからだ。光ファイバー通信自体は。1980年代中頃から企業向けサービスとして一部で利用されていたが、NTT(日本電信電話株式会社)が回線設備を管理運営していたため、「独占禁止法」に抵触するとして問題視され、一般への提供が遅れたとされている。
この後、2006年に「ニコニコ動画」、2007年には「Youtube 日本語版」と、いわゆる動画サイトが運営を開始している。スマートフォンが普及し始めたのがこの翌年、2008年~2009年頃である。
※光回線:1Gbps(回線契約により5Gbpsや10Gbpsも可能)
回線速度や端末機器の性能向上に合わせ、上記で例を上げたサービス以外に「SNS」や「ゲーム」といったジャンルも連れて進化を遂げた。
公衆無線LANについては、2002年頃から限定的にサービスが提供されていたが、徐々に整備が進み、現在は広く利用されるまでに至っている。
そして2020年、ついに「5G(第5世代移動通信システム)」の一般利用にまでその技術は及んでいる。「高速大容量」「高信頼・低遅延通信」「多数同時接続」という3つの特徴があるとされる「5G」。次世代の通信インフラとして社会に大きな技術革新をもたらすと期待されている技術だ。
解決されぬ問題点
回線速度については上記で述べた通りであり、端末の性能についても今さら詳細な説明をせずとも良いだろう。とにかく”凄い”ということだけ理解していれば、取り立てるほどの問題は無い。
考えなければならないのは、インターネットを通じた人と人との繋がり方、接し方である。
子供の友人同士のイジメなどもそうだが、昨今、有名人・著名人へ向けての無慈悲な暴言が度々問題視される。亡くなってしまった女子プロレスラーであった”木村花”さんの話しもまだ、記憶に新しい。
「目の前に人がいない状況では、普段言えないことが簡単に言えしまう」
これは、インターネットが普及し始めた当初から言われている利用者の意識の問題だ。
この”インターネットの中での意識”は、以前は「ネチケット(インターネットエチケット)」と言われ、インターネット利用者のマナーとして注意喚起が絶えずなされてきた。しかし、ここ数年の急激な技術の進歩と、環境の整備や発展に伴って増えた利用者と利用時間は、その意識を希薄化させていっているようにも見える。
1人、また1人と糾弾や罵倒をする者が増え、他者がそれを見て同調する。そして「自分だけじゃない」という加害者意識の薄れを招き、自分たちが正しいという大衆心理を構成してしまう。こういった大衆心理が起こす現象において、それらが全て間違いだとは思わない。先日の”検察庁法改正案”の件は、その大半は罵倒や暴言ではなかった良い例であった。
しかし、対象が一般個人の場合においては別問題として捉える必要がある。まず、自分が言おうとしていることや言いたいことを、すでに言っている人がいるか、その数はどの程度か、自分が加わってまで言わなければいけないことなのか、このくらいは考慮するべきである。もちろん、人の性格や考え方によってはダメージが皆無の人もいるだろう。だが、多くの人は普通に傷付き、想い悩むものだということを忘れてはいけない。
他人を思いやるとき、「もし仮に自分なら」と置き換える想像力が必要であるが、先にも述べた通り、そういった意識は希薄化しつつあるように見受けられる。最近では、学校でもインターネットに関する授業も増えてきているようではあるが、技術や知識だけではなく、道徳などと合わせてこういった心の在り方についても、教え学んでほしいと願うばかりだ。
インターネットの閉塞性
昨今、「オールドメディアは嘘ばかり」「インターネットの情報が正しい」と唱える者たちがいる。本当にそうだろうか。
確かに、ときとしてインターネットでは”大手メディア”の報道しない裏側が暴露されたり、扱われない情報が飛び交うことがある。そういった意味では広く情報を得ることはできる。だが、インターネットの利用に慣れれば慣れるほど、取得する情報に偏りが生じてくることに気付かない人々も多い。
ツイッターやYoutube、他のSNSの中には便利な機能に「フォロー」というものがある。以前までは「ブックマーク」や「お気に入り」という言葉で使われていた機能だ。これは、自分のよく見るWEBページ(SNSでは”個人”)を表示しやすい状態に置いておくことだ。そして、その「フォロー」は個人の好みで似たようなものが集まっていく傾向がある。
ツイッターでは、その「フォロー」をした人たちの発言が常時まとめてられているのが「TL(タイムライン)」だが、「フォロー」がある程度増えてくると、自身の”TL”を見るだけで一通りの情報を知った気になってしまうことがある。自分の好みで集めた人たちの情報だけを見て、それを真実と思い込む。こういった状況に陥っている人は、ツイッター内では少なくない。
そして、それに慣れてしまうと、それに対する異論や指摘が間違っているのだと思い込むようになってしまう。いわゆる「軽いセルフ洗脳状態」だ。
Youtubeなどの動画サイトでもこの傾向はある。
Youtubeは特に、フォローしたチャンネル以外でもトップページには「最近見た動画から推測されるお薦め」が表示される。中にはフォローしているものと関連の無いものや、異論となるものも含まれてはいるが、この現象に気付かずにいる人は、それらを見ようとはしないだろう。
つまり、自分自身にとって都合の良い情報、耳障りの良い情報だけを集めてしまい、日常的に情報の偏向取得を行ってしまっているのである。
その点を指摘せず、既存メディアの偏向報道だけを批難することは筋が通らない。インターネットでの情報の偏向取得の怖いところは、先に既存メディアでの情報を取得しておくことで、それを比較対象とした後にインターネットでの情報を得る。人は後に知ったことを真実として思い込む傾向があるため「インターネットの情報 = 正しい」と、その真偽を自身で確かめもせずに信じてしまうという、思い込みの罠なのだ。
さらに言うと、インターネットで発信されている情報のうち、”専門家や専門機関ではない個人”の発言などについては、その多くはエビデンスが示されない憶測である場合も多い。「おそらく~」「~だと思っている」が話しの中で何度も繰り返し出てくる者の発言は、そのまま鵜呑みにするのは危険だと言わざるを得ない。また、そういった者は「自分は正しい」と豪語することも多い。そういう者ほど、上記のようなことを指摘しないまま「オールドメディアは嘘ばかり」「インターネットの情報が正しい」などと言う。
現在では様々な情報がインターネットには流れている。そんな中で、ただ与えられた情報だけを鵜呑みにするのではなく、自分自身でその真偽を確認するまでが”情報取得の一環”であると認識してほしい。
ネット選挙の賛否
上記で述べたことは、できれば改善していくべき点ではあるが、日常生活の中においては、それが問題になることは実はほとんど無いと言っていい。
多くの場合、友人知人らとの会話の中で間違いを指摘されるかもしれない、というくらいのものだ。
実際にそれが問題となるのは、選挙などで人々の”判断が求められるとき”である。上記で述べたように、インターネットユーザーの中には「セルフ洗脳状態」である人々が少なからず存在する。そして、そういった人々を利用する目的で、インターネットでの選挙(投票)を解禁しようと呼びかける者もいる。そのような呼びかけをする者自身とその周りを注意深く見てみると、必ずと言っていいほど「信者」と呼ばれる人々がいることがわかる。
インターネットでの選挙(投票)については、2017年に当時の野田聖子総務大臣の指示で総務省がインターネット投票について検討を進めていた。
当時、世界で唯一、国政選挙でインターネット投票を導入していた北欧の国「エストニア」を参考に議論が進んでいた。「エストニア」は1991年に旧ソビエトから独立した人口約130万人の国である。2007年、「エストニア」でインターネット投票が導入された初めての国政選挙で、そのインターネット投票の利用率は全投票者の約5%であった。その8年後の2015年、3回目の国政選挙では約30%まで伸びたという。
しかし、日本では実現することなく頓挫している。
インターネットで選挙の投票を受け付けることは、技術的に言えばそれほど難しくはない。実現すれば投票率の向上は目覚しいものとなるだろう。そして、否定する意見で多く見られる「本人確認」においても、実際の選挙での投票でも本格的な「本人確認」がなされていないことまで考慮するならば、すぐに実施されても何ら不思議では無い。
しかし、インターネット投票において危惧される点は他にもある。
まず身近な問題から見てみると、家族が勝手に投票してしまう可能性もその1つだ。例えば、成人の息子や娘と共に暮らす夫婦の4人家族で、4人それぞれが支持する政党や政治家が違った場合、家族の誰かが勝手に本人たちの意思に反して4人分の投票を行ってしまう可能性がある。また、近所の人が勝手にやってしまう可能性も否定できないだろう。この代理(身代わり)投票の手法に注目すると、集団での票の取りまとめが簡単にできてしまうことに気付く。
例え郵送で投票に必要なQRコードのような個人に指定されるものが送られて来たとしても、取りまとめを行う者に”それ”を渡し、委ねてしまえるのだ。これを組織的に行ったならば、簡単かつ確実に組織票が作れてしまう。これは、買収が容易で確実に行えるということだ。
また、集会などの場で、「誰々に投票しましょう」と何かのセミナーのように誘導して投票をさせることも可能だろう。
(端末固有の識別番号やIPアドレスのチェックで重複投稿を禁止するなど、防止策はいくつもあるが、それも、”家族で連続してできなくなる”、”職場では投票できない”、など、不便さを強いることに繋がる方法が多い。)
さらに、この問題を解決しようとすると、「勝手に投票されてしまった場合に取消せるか」という問題も考えなくてならない。(「エストニア」では、選挙期間中は何度でもやり直せる)
現行の”自分で投票所へ行って投票する”という形式が、こういった問題を自然と防止するかたちになっていると言えるのではないだろうか。
そして、やはり物理的な問題もある。投票を受け付けるサーバーやシステムがダウンせずに運用できるか、という問題だ。有権者がさほど多くない地方選挙ならばまだしも、都市部や国政選挙ともなれば、投票を受け付ける選挙期間中の負荷は多大なものとなる。選挙期間中にダウンしてしまったらどうするのか、という問題についても、以前の総務省の検討では答えは示されなかったという。(「5G」の時代に突入した現在、当時と比べ状況は変わっていると思われるのだが)
最後に、私個人の考えを述べさせていただくが、選挙に興味の無い人たちがそのときの気分で投票してしまえるような制度にするべきではないと考えている。誰に投票して良いかもわからず、政治や選挙に興味の無いままであるならば、投票に参加するべきではないと思っているからだ。
少しでも興味を持ち、少しでも考えた者たちで選び、決める。それが選挙であり、その結果で当選した者が”選ばれた政治家”である。また、”よくわからずに投票する人々”の浮動票のおかげで当選できた者がいたとしても、そうして当選して政治家になった者に、”選ばれたという自覚と責任感”が芽生えるかどうかも疑問なのだ。それは、昨今の政治家に欠落していると思われる点でもあると思われる。だからこそ、今それを軽視するべきではない。というのが私の想いだ。
私は何も、インターネット投票に全面的に反対なわけではない。十分な議論の末に想定される問題が解決されるならば、ゆくゆくは導入されても不思議では無いと思っている。しかし、現状で特に議論も無いまま導入することには反対である。理由は上記で述べた通りだ。
「技術的に可能だからやろう」の前に、「技術的に可能になった。問題が無いか議論しよう」ならば、私は議論することには賛成する。
願わくば、結果だけを急がず、人々の理解と認識にも目をやりながら、議論を進めてもらいたいものである。
ネット選挙とインターネットの普及(終)