ミシェルウエルベックの『滅ぼす』を読んで考えた①
物語からしか得られない癒しがある
人には2種類ある。信じることができる人間とそうでない人間。この物語は信じることができない人間のためのものである。
何を信じるのかというとそれは純朴に“ある“ということに他ならない。
“ある“がまずなければこの世の全ては足場をなくし無価値で不安定なものとなる。
“ある“とはかつては神が担保したものだった。
しかし神なき今、人は足場のなさに耐えられず信じられる正しさを作り上げてしまう。
今回の小説でそれらは、主人公の妹の信じるキリスト教であり、妻の信じる新宗教であり、環境活動家であり、ポリコレと呼ばれる社会的な正しさである。
これらを信じることでかろうじて自身の存在に価値を感じられる。
しかしウエルベックは(そして彼の小説をバイブルとして生きるわたしも)信じたいけど信じること自体が持つ浅はかさによって何も信じることができない。
信じることが苦手な人間は優しさを与えることや受け取ることができない。優しさは信じることから生まれているから。(優しさの意味についてはもうすこし研究して考えをクリアに言語化したい)
何も信じられないものの絶望は優しさが人生にないこと。優しさがないと日々は無味乾燥でいつも居心地が悪い。
そしてこの種の絶望にもっとも近づけるのはいまのところ文学、物語しかない。
ウエルベックの書く物語によってしか癒されない絶望がある。そしてウエルベックが売れっ子作家であることからこの絶望は神なき現代の多くの人が抱える根本的欠落なのであろうと推測される。
続く
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