期待
自分が何者なんだろう
自分は何がしたいのだろう
自分はどうありたいのか
数年前から気づき始め、今年に入ってから特に目の当たりにされている。
目の当たりにしているのにどうしたらいいのか、まだまだもがいている。
無視しようとすると、それが体調不良でという形で向き合わされる。
昨日は夏至だったが、10日ほど前から身体が全然動かなくなってしまった。
季節的なものとも言えるけど、昨夜ふと感じたのが「期待」という言葉。
私は私に対して期待してくれること、人に「期待に応えることを最優先にして」生きて来たことに気づいた。
そしてそれは同時に「私はここまで期待に応えようとしているのだから、私の期待に応えるべきだ」というスタンスで人と接して来ていた。
もちろん、「期待する」「期待される」は全てが悪ではない。
そもそも「悪」とか「善」とかいうものではない。
エッセンス的に道具として使うことができたら問題はない。
でも、それが目的になった途端、「自分の人生を人に明け渡してしまう」ということになることを私は気付けていなかった。
死に物狂いで期待に応えようとし、身も心も疲弊しているにもかかわらず、それを止めることができなかった。
「できない」が言えないのは、そのため。
「期待を裏切ってはいけない」という呪い。
もちろん、これは、強制されたことでもなく、自分が思い込んでただけ。
誰かが悪いわけでもなく、自分が悪いわけでもない。
今までの人生に中で、必死にやって来たことは無駄ではない。
そういうことをやって来たから、今の生活がある。
誰かを守るために必死にならなくては生きていけない現実があったのは明らかだったし。
ただ、これからの自分の人生は、もう、そういう次元で物事を見ることを止めるだけでいい。
「期待をする」「期待に応える」ではなく、「信じる」という立ち位置であることに気づくだけでいいんだ。
いや、信じるよりも「祈る」という言葉の方がいいかもしれない。
仕事をしている時も、相手に期待をするのではない。
成長するかどうかはその本人の問題。
私ができるのは、成長するのを期待するのではなく、成長することを「信じて祈るだけ」しかできない。
他人への期待を目的にして生きていく人生はもう終わり。
私は私を信じて私の人生を歩くことしかできない。
夏至を迎えて、それを感じた朝のつぶやきでした。