『リチャード二世』 王か、我か、その分裂
ウィリアム・シェイクスピア『リチャード二世』(松岡和子・訳 ちくま文庫 2015年、小田島雄志・訳 白水Uブックス 1983年、菅 泰男・訳 シェイクスピアⅢ 世界古典文学全集43 筑摩書房 1966年)
あらすじ
・リチャード二世王は、ボリングブルック(のちのヘンリー四世)とモーブレーの言い争いを裁定する。
・リチャードは二人を和解させようとするが、叶わず。
その後、二人をイングランドから追放した。
・ジョン・オブ・ゴーント(ボリングブルックの父、リチャード二世の叔父)が病に倒れる。ゴーントはリチャードの浪費と悪政を非難する。
・ゴーントが死ぬと、リチャードはその遺産を没収。
資金を得て、アイルランド遠征を行う。
・リチャードの不在中、ボリングブルックが帰国。
貴族たちをまとめ勢力を拡大し、反乱を起こす。
・リチャードがイングランドに戻ると、ボリングブルックはリチャードに降伏を迫り、リチャードは承諾する。
・ボリングブルックがヘンリー四世として王位に就く。
象徴的なリチャードの退位の場面。
・リチャードはポンフレット城に幽閉される。
・騎士エクストンがヘンリー四世の言葉を誤解して、リチャードを暗殺。
(ボリングブルックがリチャードのことを「生きている恐怖だ」と言うのを聞いて、暗殺の指示だと捉えた。←実はあえて誤解をまねく言い方をした。)
・ヘンリー四世はリチャードの死を表面上は嘆き、エクストンを処罰する。
特徴
・ほとんどが散文ではなく韻文で書かれている。詩情性がある。
・リチャード二世の内面描写、葛藤と混乱 → 悲劇へ。王権が重荷に。
・リチャード二世は、神の導きで王に選ばれたと信じている。象徴主義的。
一方、ボリングブルック(ヘンリー四世)は現実主義的。二人は対照的。
王権とは、神聖で正統であるべきか、現実的合理的であるべきか?
・イングランドと庭園(3幕4番)、王と獅子(5幕1場)など印象的な隠喩が多い。
作品の位置付け
シェイクスピアの作品を、実際の歴史の流れで並べておく。
『リチャード二世』→『ヘンリー四世』二部作→『ヘンリー五世』→『ヘンリー六世』三部作→(エドワード四世→エドワード五世)→『リチャード三世』→(ヘンリー七世)→『ヘンリー八世』
( )内の王については作品がない。
在位期間の合計でみれば、1327年から1547年まで。
この順番で作品を読めばわかりやすいと思う。歴史書と併読しても面白い。ただし作品内容は史実に忠実とは限らず、当時の知見やシェークスピアが創作した部分もある。
リチャード退位の場面を読む
リチャードが王冠と笏を渡す
リチャードが犯した罪を記した書を「読んでほしい」と迫られる
リチャードは拒否し、鏡を要求。自分の顔を「読んでやる」と主張
鏡に映った顔が王のままであるのに驚き、怒り、失望し、鏡を割る
・王冠
リチャードは王冠をボリングブルックに手渡しながら、それが〈権力〉と〈苦しみ〉の両方を象徴していることを語る。以下の引用は、リチャード自身が抱える心労までもボリングブルックに渡そうとするが、それも叶わないことへの悲嘆である。
・鏡
リチャードは〈鏡〉を持ってこさせて、自分の顔を見る。
王でなくなったにも関わらず、自分の外見が変わらないことに驚き、鏡を床に叩きつけて割る。
彼のアイデンティティは砕け散った。
ボリングブルックは言う、
リチャードはそれに納得して言う、
今や、リチャードは〈内面的な悲しみの自己〉と〈外面的な王としての自己〉へと明確な分裂を開始した。この場面は、まさにその瞬間を捉えている。
それでもなお、リチャードは魂という内部へ回帰し、さらに潜っていこうとしている。
王/王ではない 身振りがあるのみ
ボリングブルックに「王冠を譲渡する気持ちはあるのですか?」と訊かれ、「ない、ある、ある、ない」と曖昧な返答をする。王権と王冠の矛盾性と、揺れる心を二重投影している。
象徴的なこの場面。3つの異なる訳を比べることで、立体的に味わってみてほしい。
以下、英文を参考までに載せておく。
「Ay, no; no, ay」(yes, no. no, yes.)
王冠を譲りたいが、その王冠を譲る自分はすでに王座を剥奪されている。だからそれは委譲ではなく、ただの身振りでしかない。その矛盾。
同時に、すべてを明け渡してしまうことに対する、リチャードの動揺を重ねて見ることもできる。
松岡訳の「どんなふうに私が私を私でないものにするか。」は強烈な印象。「私が」という主語を入れたことで、リチャードの自己が分裂する様を端的に表現できていると思う。「『異存がある』はない。」も明確に説明した訳になっている。
小田島訳は読みやすい。文末に「さしあげよう」を重ねて、原文が韻を踏んでいるのをきちんと描き出している。
余談:〈ある〉はある、〈ない〉もある
まず意識の場があって、そのうえで「ある」「ない」と言えるわけで、「ない」も意識された何かではある。したがって「ない」もあることが前提となる。つまり、〈ない〉も〈ある〉に含まれる。
コインを考えてみればわかる。片側だけで、反対側が何も存在しないコインなどあり得ない。必ず両面が存在し、ただ便宜上、片方を「おもて」もう片方を「うら」と名付けているだけである。だからあえて両方とも表と言ってもいいし、裏と言ってもいい。
まず意識があって、指差せるものはすべて「ある」と言うことができる。
大きな視野で見れば、『リチャード二世』は、〈神聖な王権〉と〈現実的な王権〉に分裂していく分岐点の歴史劇であり、またリチャードその人が〈王〉と〈自分〉に分かれることの悲劇をうたった叙事詩のようでもある。
非常に深みを持つこの一編、ぜひ読んでみてほしい。
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