ガラスの動物園
こんばんは。都内のスタジオでリアリズム演技の演技講師をしております。そこで見えてくる演技と人間、あるいは演技と人生について主に書いております。
「ガラスの動物園」は、演技に関わる人にとっては知らない人がいないといっても過言ではないほど有名な作品です。テネシー・ウィリアムズの自伝的作品で、2度の映画化を含めて今までにも多くの作品が作られてきました。知らない方は、ちょっとわからない話になってしまいます。すみません。
僕は、NY在住時にクリスチャン・スレーターがトム役を演じていた2005年のブロードウェイ作品を見ました。繊細な作りで、本場のアメリカでの作品です。素晴らしかったです。ジェシカ・ラングのアマンダも非常に魅力的でしたが、サラ・ポールソン演じるローラの繊細さ、壊れやすさにも非常に魅かれたのを覚えています。セットや照明もテネシーの意図を反映したように、きちんと作りこまれていました。正統派なテネシーの「ガラスの動物園」というところでしょうか?
しかし、先週の金曜日に見たものは、今までのどの作品とも違っていました。まず、セットがシンプルというか、正直「えっ!」というほどでした。かなり抽象的なセットに、模様が登場人物の一人ともいえる父親の顔のように見える壁、キッチンと大きな冷蔵庫、外に出ていく階段は上に向かっている。レコードプレーヤーは床に直置きで、クッションがいくつか、劇中で使う時に分かる壁に埋め込まれた小物置き場。とにかく、シンプルでした。(これは、終演後のトークショーでデザイナーの方からも話がありました。セットはキツネやウサギの巣穴からインスピレーションを受けたもので、これは演出の「檻に囚われたところからの脱出を試みようとする」という意図を表現しているとのことでした。)
劇の始まりは、客席に向かってトム役が手品を始めて、冒頭のセリフに入って行きます。フランス語の美しさを感じつつ、今までにない響きに若干戸惑いを感じました。
前半はとにかくテンポが良い。なんとなく、フランス人のお芝居だな~と感じました。フランス人の生活、あるいは大陸的な生活という感覚が最初の印象。やはり、今までの「ガラスの動物園」像があるだけに、違和感がぬぐえない。時代背景、時代設定、生活感などは一切省かれていました。テネシーの戯曲特有の湿度や場所の感覚が薄いし、生活感や人間臭さがあまり感じられないのでなかなか入り込めない感じが最初ありました。しかし、時代背景や設定を取り除いていくというのは演出の意図だと、後のトークショーで知りました。どの場所、どの時代でも通じる普遍的な作品にする意図があるとのことで、パズルのピースがはまるようで楽しい感覚がありました。
色々な裏切りがそこにはありました。とにかく、アクティブです。アマンダも、ローラも、トムも動きます。ローラの片足を引きずるような欠点はかなり抑えられていて、普通に動けるときの方が多く、ジムが二人の時に気づかなかったと話すように舞台上でも時折だけでした。これも大きな違いでした。自分が欠点だと思い込んでいるだけで、他の人には大したことじゃない!というジムの言葉通りの表現で、もしかしたら今にも通じるのかも知れません。アマンダの大人になりきれていない感じは、愚かしくもあり、それでも非常にキュートでした。料理の仕方は豪快そのもので、かなり笑いも起こっていました。ローラは、線が細いよりも小さくて、トムの姉なのに妹のように感じたのも新鮮でした。表向きは重苦しさよりも、明るくてアクティブな家族像。だからこそ、その背景には父親不在の陰があり、子供たちを育てようとする母親の懸命さが、トムにとっては窮屈になり、閉塞感からの逃避を実行するようになったのでしょうか?
ジムとローラのシーンは非常に美しかったです。雨漏りの効果は絶大で、缶に落ちる雨漏りの水滴の音、電気が落とされてろうそくの薄明りの中で話す二人の姿も美しく、演劇は総合芸術と改めて感じる場面でもありました。
何度も読み返した作品ですし、昔、テネシーのコラージュ作品でトム役として挑んでいた時に、他の作品もかなり読んでいたので、テネシーの世界観が自分の中には出来上がっていました。最初はなかなか入り込めないところもありました。「何かが違う!」という自分がいたことも事実です。ですが、進んで行くとアマンダが自然にスッと入ってくるようになりました。違う意図で作られている作品なんだと思い、とにかく、この目の前の作品を味わってみようと思いました。
とにかく、固定概念が覆されました。そして、壊していいんだ! 改めて、演劇って自由なんだという喜びを感じた舞台でした。
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