本日(2022年11月14日)の研究報告は、三原光尋『しあわせのかおり』の映画版と原作小説を対照させる内容でした。
小説の映画化、映画のノベライズなど、ひとつの作品を別のジャンルで表現する営みは「アダプテーション」と呼ばれます。
少し前、アダプテーションは、日本の文学・映画研究においてちょっとしたブームになりました。
しかし、アダプテーション研究では、小説と映画など異なるジャンルの差を指摘するだけにとどまることも多く、新しい知見が提示されることはあまりありません。(私見です)
本日のゼミで報告者も指摘していたように、小説と映画には様相の違いがあります。よって、両者に差が出るのは当たり前で、「差がある」という事実を指摘するだけの研究には、意味がありません。
今回の研究報告が意義深かったのは、小説と映画の差を指摘したからではなく、その差を「味覚」から考えようとしていたからです。
関連して、ゼミ生から「嗅覚」の質問も出ました。小説で描かれた味覚と嗅覚といえば、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』です。主人公が紅茶と共に出されたマドレーヌを口にした瞬間、記憶が呼び戻される場面があります。
この小説の特徴は、人間の内面を、感覚(sensation)によって描写する点です。
そこには、単なる外界の模倣とは違った独特なリアリティ、生活の手触りが感じられます。上・中流階級のスノビズムを揶揄することによって知性や観念を遠ざけ、感覚を際立たせるという作者の思惑が随所に見出せます。
同じく感覚を大事にした日本の文学者といえば(趣は異なるかもしれませんが)泉鏡花や古井由吉などが思い浮かびます。
映画には食事の場面がよく出てきますし、フード・シネマというカテゴリーもあるようですから、画面から伝わりにくい味覚や嗅覚の表現に注目してみるのも、おもしろいかもしれません。
これらの「感覚」が、ジャンルを超えて受け手にどのような効果を及ぼすのか、という視点であれば、アダプテーション研究も意義をもつでしょう。