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脳出血〜食事が摂れた!

6月19日 水曜日

主治医から夫の経過報告がある日。

大阪から真由(夫の長女)が来る。
陽奈(わたしの娘)も今日は仕事がお休みなので
3人で病院へ行く。

院長先生、担当の看護師Aさん、ソーシャルワーカーのYさんと共に夫も登場。

夫は真由が来ていることを知り、真由の顔を見て泣く。

転院の際に真由が来てくれた時は
真由のことも美由のことも全く眼中になくて、
彼女たちが話しかけても 反応がなく、
まるで存在をわかっていないかのようだったのに、
この日、倒れて入院してから初めて
真由をしっかりと認識して

真由は今も毎日7時頃に出勤してるん?

と、たずねた。
真由の出勤時間をちゃんと覚えていた。


その後、真由の隣にいた わたしと陽奈に気づいたら、声をあげて泣いてしまった。

院長先生が、優しく夫の肩をポンポンとしてくれたのを見て、
〝優しい院長先生で良かったな〟とホッとした。

院長先生からは

6月17日 月曜日に嚥下の検査をし、
火曜日から昼食時だけ、経管栄養のチューブを外して 食べる練習をスタートしています。
嚥下機能に問題なく、しっかりと飲み込めているので、このまま1週間様子を見て、さらにどんどん食べられそうなら次の週から食べる量を増やす。食べられなさそうなら胃ろうを考える。

左足の装具も完成してきたので、歩くリハビリもスタートしていきます。
とは言え、まだ座っていられる時間も長くて1時間程度なので、離床をどんどん進めていきます。

とお話しがあり、

わぉ!口から食べられるようになったんやね!
よかったね!嬉しいね!

〝食べることは生きること〟

トロトロにしたお食事で、まずは少量からとのことだったが、
口から食べられた!お茶も飲めた!という報告がとてつもなく嬉しかった。

その後担当の看護師Aさんからも
日頃の様子をお話しいただく。

スタッフとの会話がとても弾みます。
奥様のこと、真由さん、陽奈さん、そして亮ちゃん!えーと、亮ちゃんは息子さんですよね!
息子さんのお話しもよくされています。
一番下の娘さん…美由さんのお話しも…
特に奥さまのことは〝あけちゃんが、あけちゃんが〟とお話しくださるので、
もう私も皆さんのお名前も覚えてしまい、皆さんとお知り合いになったような気持ちになってしまったほどです。

ご家族をとても大切になさってるんだなぁということが会話の中から感じられます。

記憶もしっかりしているし、
わたしたちにも協力してくれる。

まだ一食だけですが、口からのお食事も始まりましたので、リハビリをどんどん進めていけるように関わらせていただきます。

この、担当の看護師さんが とーっても優しい方で
本当にお人柄が良く、気が利いてしっかりしてらっしゃるので、
そのことも

〝ほんまによかったー😭〟と、もうあらゆる存在に感謝した。

我が家は、陽奈が先天性の疾患を持って生まれたため
赤ちゃんの頃から 何度も手術・入院は経験しているけど、
病院での 医師や看護師との出会い  
が、その後の人生を変えることも散々経験している。

陽奈の主治医&執刀医は〝教授〟ではなく、〝講師〟の先生で、
そのお蔭で 陽奈は、同じ病気の同じ症状・同じ程度の方たちよりも 手術の回数が2回も少なくなっている。

教授のチームになった子の親御さんたちは、
もれなくわたしに

『担当医が教授でよかった…(うちの子は教授に診てもらえて安心よ!)』

と マウントをとってきていたが、

何度かのオペを経験した10年後には、
『うちの子も陽奈ちゃんの主治医が執刀してくれたら良かったのに…』と、激しく後悔なさっていた。

本当に幸運なことに
陽奈の主治医とそのチームは
患者のことを第一に考えてその患者にとってのベストを探してくれて治療を進めて下さったので
術後の回復も 教授のチームの患者さんたちより早く、通常1ヶ月の入院が、10日も早く退院出来るようになったこともあった。

小学校4年生までは、わたしも付き添って入院しなければならなかったので、
毎回、入院予定期間が短くなってくれるのは
本当に有り難く、
特に、陽奈の年子の兄の亮輔が小さかった頃は
亮輔を見てくれる者がおらず
どこにも預け先がなかったので、亮輔も一緒に入院するために個室を取る必要があり、
必要なことだから仕方ないけれど、
差額ベッド代が一番安いお部屋でも1日8,000円もかかったので
入院期間が短くなることは非常にありがたかった。

実家がない。頼れる親がいない(戸籍上親は存在していたけれど)というのは
こういう、何かがあったときに本当に心細いものだ。

18歳、大学進学を期に
やっと、やっと暴力を振るう養父から逃げ出すことが出来たわたしは、
その時から母親との縁も切って 大阪から名古屋へ出ること、これからは自分1人で生きていくことを決意した。
いや、有難いことに
親以外の優しい人、優しい制度には
大変お世話になった。
そのお蔭で、親に頼らなくてもちゃんと生活することが出来た。

大学は、成績優秀者のための奨学金制度を利用し
4年間学ばせていただいて、
その間必死にアルバイトをして 自分で自分の生活をきちんと立てて
卒業後は、陽奈が生まれるまで郵政省に勤務した。

大阪で厳しい生活をしていたわたしに、
名古屋はとても優しく温かく
30年 名古屋に住んでみて、たくさんの良き友にも出会え、
離婚も経験して その時にも色んな方にたくさん助けていただいたから、
もう大阪に戻ろうとは微塵も思わない。

ただ、
やはり何かあった時に頼れる身内がいないのは
本当に本当に心細い。

夫は、そんなわたしとって
唯一の頼れる身内で味方だったから、
夫が脳出血で倒れた時、あんなに泣いたのは
心細くなってしまったからだったからだろうか。

我が家はそれぞれに家計をやりくりしていたから、
夫が倒れても、我が家の収支にはなんの影響もない。
それでも、結婚して10年…精神的にお互い支え合って生きてきたから、
こんなに心細くなってしまったのだろう。
この10年がとても幸せな10年間だったことを思い知らされた。

子どもたちの学校のことや、お互いの仕事のことで一緒に住むことが叶わなかった10年…
何度も話し合って、喧嘩もして
結局、それぞれの場所での別居婚という形を取らざるを得なかったけれど、
定期的に往き来をして、恋人同士のように わずかに会える時間を大切にし、会えない日々を愛を育てる時間(郷ひろみ)にできたことは、
本当に幸せなことだったのだと、振り返ってみて改めて思う。





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