My Music Library #1 - 2022/10/27
こんにちは。ダリ衛門です。サルバドール・ダリが好きな衛門なので、ダリ衛門と言います。
この記事では自分が最近聴いた音楽の内、出来るだけ違うジャンルの曲を5曲選んでつらつらと語っていきます。たっぷりの角砂糖、それから一枚のレモンを沈めた紅茶をお手元に用意して、ゆったりとお読みいただければ幸いです。よろしくお願いします。
1曲目: カオスが極まる/ UNISON SQUARE GARDEN
ユニゾンが満を持して発表した半年ぶりの新曲、「カオスが極まる」。そのタイトルの引きがあまりにも強いため、一体どんな曲なのかという期待と、それを超えてこない楽曲だったらどうしようという不安を抱えながら再生する。
聴く数秒前に慌てて誂えた期待と不安なんてなんの防衛にもならず、約四分の終始、脳がただ良いという信号を発する装置と化しました。べらぼうに良いです。
何がいいかと言うと、めちゃくちゃ色々良いんですけど、まず前提としてユニゾンてスリーピースバンドで、スリーピースなら普通のバンドに比べて手数も音数も少ないのが当たり前なのですが、それを感じさせない作曲の妙が良いし、演奏のクオリティが当たり前に高いところが良いし、MVにメンバー三人のみ出てくるシンプルな作りなのが良いし、ついでに斎藤宏介の顔も良いし、須く良い。しかもこれライブで普通にやっちゃう曲らしくてえげつない。いや、スリーピースってもっと難易度の高くない、冒険しない曲作るのが定石なんじゃないんですかね……。
ユニゾンというバンドについては、アニソン作曲家である田淵智也の別口の活動だと思っているので、あるアニソン曲を聴くと脳内で斎藤宏介の声で変換されたり、逆にユニゾンの曲が女性声優の可愛い歌声で再生されたりというバグを抱えながら日々を送っているのですが、それが起きてしまう大きな要因の一つとして、歌詞の言い回しとそこに付随するメロディーがあまりにも田淵節極まりないということが言えます。
が、しかし、これについては不勉強故まだあやふわな理解しか及んでいないので、今後体系化出来るようもっと聴いていかなくてはといった所存です。
この曲のフックはサビ前の8小節~サビ、二番の入りとするのが妥当だとは思いますが、個人的には冒頭4小節+8小節を同じ圧力のまま駆け抜けていく感じがとても好きで、特に8小節のコードが4:4ではなくて、6:2の収まり方をしているのが曲としての面白みを増している。こういうわずかな差異がユニゾンというバンドの楽曲の魅力を構成する要因だと思いますし、今後ももっと色んな曲を聴いてその魅力を余すところなく享受していきたいです。
(途中に挟まるギターリフがPhantom Jokeに出てくるリフにちょっと似てて良かったです)
2曲目: Nxde / (G)-IDLE
これ、ほんっとにやばいです。もう秋も深まってきた時期にこんな曲出てきて、今年のヨジャドルの楽曲戦争どうなっちゃうんですかね。文字通り鎬を削る戦いなのは間違いなくて、だってまずレドベルのFeel My Rhythmが春頃、IVEの三曲は全部キラーチューンで、aespaもまあえげつなくて、NewJeansとかいう化け物に至ってはお手上げです。ヘリンちゃん最強。まあただ、好みを加味した個人的な三曲を挙げるなら、Feel My Rhythm, After LIKE, cookieでFA(フリーエージェントじゃないよ)だと思っていた、のですが……
Nxde、全てが火力高すぎてやばいです。
Nxdeにおけるロールモデルとなっているのは、セックスシンボルとして名を馳せたマリリン・モンロー。本来の生い立ちとは全く異なる姿をメディアによって形成され、一見すると愚かな女性と思われがちだった彼女に扮するアイドル達というのは、パッケージ化された見世物という点では大いに通ずるものがあり、また、全員が髪をブリーチしてカムバに臨んだヨジャグルの曲としてRed VelvetのAutomaticが挙げられるが、これは所謂アイドル各々の個性を均一化し、"Red Vevet"というブランドの商品イメージをより鮮烈にするためのもの、あるいはそれ自体のひとつの芸術としての到達点となっていたため、Nxdeのブロンドとは作品におけるアイドルの立ち位置、在り方が違うというのは面白い。
偶然にもお互い人数の差し引きがあったためどちらも5人体制であることや、コンセプトがどちらもクラシカルな様相を呈していること、その中で一方は芸術作品として俯瞰しており、もう一方は自分自身の商品価値についてを主観的に見ているという差異があることによって、この二作を比較する意義もまた生まれると思わせてくれる……
というわけで、kpop、まだまだ進化していきそうで最高!
3曲目: Piano Concert No.3 in D minor / Rachmaninov
お恥ずかしながら最近、なんだかクラシックに対してのモチベーションが低い。倦怠期は3年おきにくると言うから、私がオーボエを始めてから約7年目、今まで飽きが来ず好きでいられただけ勲章ものなのかもしれない。 第一、クラシックという代物と付き合うには、世の中が抱く退屈で悠長、そしてお堅いイメージが強過ぎるため、常に世間体を気にする私の性格上、楽しもうとしても何となくの後ろめたさが伴う。
しかも喜怒哀楽を強弱で表現するものだから、移動手段が電車の私にとっては、車内に佇む中でイヤホンから流れるその感情の波を取りこぼさずに、全て聴きとってやるのは至難の業なのである。
とはいえ、クラシックに触れる行為を完全に絶ってしまうこともないだろう。何故なら、それがもたらす至上の甘美を既に知ってしまったからである。ある時は知らない国のどこまでも広がる大地を、ある時は午前四時に訪れる、息を呑むような静謐を、ある時はお城での夢みたいに絢爛な舞踏会を、クラシック音楽によってのみ私は知ることが出来たからである。
私の原風景はいつだって、ピアノとオーケストラによって呼び起こされる。文化を愛し生きとし生ける人間にとって、こんなに幸せなことがあるのだろうか?小さい頃の記憶が常に美しい音楽で彩られる人生を歩む人間が、どれほどいるだろうか?
この幸福を享受している限り、クラシック音楽から私は離れることができない。タンホイザーがヴェーヌスに出会ってしまったが最後のように、それは私を揺蕩うように捕え、どんな音楽を好きになったとて、最終的に原初に回帰することを仕組まれている。だから、クラシックの話をしていく他ないのだ。
という謎の義務感によって設けられているクラシックの話をする3曲目のコーナー。ここまで書いて尚、「やっぱり聴くの怠いなあ」と思わざるを得ないのですが、ここは一つ、昔も今も大好きな曲に戻って、その愛を再確認しようではないかと思うわけでございます。
指定のAllegro ma non Tanto よりも幾分か遅く設定されたテンポで厳かに始まり、暗闇の中で仄かにロマンの香りが漂ってくる、小澤征爾とキーシンの競演。
物心付く前から、緑の車と呼んでいた自家用車での移動中流れていたのは、これと、ポリーニのお手本のようなショパンのエチュードと、ラトルが振るブラームスの交響曲と、それから通っていたピアノ教室の課題曲。他にもブレハッチやツィマーマン、ヤンソンスやデュトワが私に沢山の美しい音楽を届けてくれた。こんなことを書いている間にも、私が心の底からそれらを慈しんでいる思いが、滔々と溢れて止まらない。
ああ、私はやっぱりクラシック音楽が好きだし、本当は父が沢山教えてくれた名盤だって知っている。自分より知識のある人に面食らって、思わず自分が知識の無い凡人であろうとして、今しばらく知らないふりを続けていたけれど、それでも私がずっと恋焦がれていた音は確かにずっとここにあって、ラフマニノフ特有の澱んだ暗い世界の中で鈍く光るような転調や、雪が吹き荒ぶ中で点々と灯る街灯を模した和音の一つ一つが、自分にとって大切で、大好きなんだ。ラフマニノフのピアコンは2番が人気だし、なんとはなしに右向け右で2番が好きだと言ってきたけれど本当は、深淵に立たされるような、それでいてずっと微かな温かさを感じられるような3番が、ずっとずっと好きだったんだ。
だから、この曲を好きだって自信を持って言えるように、色んな曲を聴いた上でやっぱり、私のルーツはこれだと言えるように、もっと聴いて、学んでいきたいと思うんです。
皆さんは、原風景が思い起こされる曲ってありますか?
是非これを読んだ折に、記憶を辿って、見つかった曲を大切にしていただきたいなと思います。
もしなかったら、これからの生活を彩る美しい音楽をどうか忘れないように、大事にしてあげてください。
4曲目: magic number / 伊東 健人 arr. OSTER project
一つ上で自分の本懐に触れてしまったため、4曲目「アニソン等」の項目では軽めの曲をチョイスさせていただきたい。
今回記事に載せている曲の中では、本当に今しがた初めて聴いた曲という感じ。サウンドとしては、爽やかで洒落た、コード進行が秀逸なボカロという印象で、まあプロセカに実装されていてもおかしくないだろうと思わせるクオリティです。ただクレジットを見ていただければ分かる通り、あの伊東健人の文字。青柳冬弥君の声優を務めている、あの伊東健人がこの曲の作詞作曲をやっているということは本当に驚くべき事実。やっぱり才能人は良いねえ、と思いつつ、編曲は安心と信頼のOSTER projectということで、確かにこのコード進行一部リハモされた感じがあったり、おそらくピアノソロ等は彼女の手による仕事なのでは無いのでしょうか。
作曲の経緯や、どこまでが彼本人手ずから作った部分なのかは分からないのですが、アコギのバッキングの雰囲気とコードアレンジ、それから曲構成が[イントロ・A・B・サビ。C・(間奏)・A・(間奏)・D・サビ・C・アウトロ]みたいな構成なのですが、サビとCは一緒で良いじゃんと言われてしまいそうですね。でもこの便宜上Cメロと置いたメロディの展開と、先に述べたアコギが非常にバンアパっぽくて好きです。もしルーツがそこなら嬉しいな。
そうじゃなくても、バンアパに影響を受けた作曲家にはある程度制作に際して関係がありそうかなと思っています。いや、編曲がOSTER projectなのでそう感じるのかな……どうだろう……
兎にも角にも、プロセカは色々なボカロPの曲を取り入れていて良いですね。ということで、そろそろいよわとメドミアに内定をあげてください。よろしくお願いします。
5曲目: Lucy In The Sky With Diamonds / Beatles
さあ、記念すべき一つ目の記事の最後に相応しいのは何だろうか、一応適当に更新しているとはいえ、色々と記事を書く上でその構成みたいなものにも気を使ったりもするのですが、結構色々と悩んでしまい、結局サイケの話をすることにしました。この音楽は知っている人にとっては本当に心酔出来る音楽で、そうでない人には全くちんぷんかんぷんだと思います。私はゆら帝、Tempalay、ビートルズやSuchmosといったアーティストに出会わなければその良さを知ることが出来ませんでしたが、実際そこそこメジャーである彼らの音楽に触れることがない限り、サイケの扉というのは強固に閉じてしまっています。だからこそぜひ、今回こういう音楽について触れていただきたい、そう思うわけです。
よくサイケに傾倒する人はヒッピーにかぶれているのか、あるいはLSDが好きなのか、といった偏見が持たれますが、そんなことはありません。本当ですよ。とはいえやっぱりその中毒性たるや破壊力が凄まじい。一度その虚脱を知ってしまった暁には、本当にどうしようもなく、ふとした虚無を味わうことが出来る幸福、確かな危険性があります。
ビートルズがサイケデリックに傾倒していた年数というのは決して長くなく、基本的にはバンドの大家として認識されるのが常ですが、こういった淡く滲むような音楽を作っており、それが問題視、時に放送禁止処分をされるような時代すらあったというのは驚きです。
そういったバックグラウンドをもとにこの曲を聴いてみると、完全にトリップしてしまった歌詞と曲想。Lucy in the sky with diamonds というセンテンスがそもそもやばいし、"look for the girl with the sun in her eyes"みたいな、別に他の曲で出てくるならまだロマンチックだな、と思える描写も、瞳孔が開いていることの暗喩なのか…?みたいな勘ぐりをしてしまう、そしてやっぱりこのサイケの音楽特有の、手足の力が抜けていくような、思考が溶けていくような、それでいて五感が鋭敏になっていくようなトランスの世界に触れる度、怖さと興味深さが体を支配していきます。もう何も考えられない、それだけがしあわせ。
でもやっぱり、サイケに傾倒するのは音楽だけに留めておきたいかな……。
というわけであれやこれやと書き連ねてきましたが、この辺で終わりにしたいなと思います。記事の一本目がこの分量だと今後の長さが不安なので、徐々に短縮する努力を忘れないようにしていきたいです。それから感想だけでなく、もっと体系的な話を盛り込まなくてはと思っているので、コード進行や音楽理論の教科書を手元に携えながら、今日も今日とて音楽と向き合う人生を楽しみたいと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
ちなみに、曲の指定ジャンルの内(Jpop、外国の音楽、クラシック、アニソン系)、何を隠そう一番クラシックに困り倒しているので、他ジャンルについてはどうにかするので、クラシックに関しては、もう私が知らなさそうな曲なんでも良いので送り付けていただけると助かります!マジで。
さようなら。
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