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そもそもそんなニーズあるの?って疑問

私には『自分で何をやってるのか分からない!』となった時の共通点がある。そもそも、それ、みんなにとって必要?って考え始めた時が、私の赤信号だ。それは、私が後退の準備をはじめた、ということを示している。

ライラックが咲いて、いい香りが漂ってくるようになった先日、チビッコが一年生になったお母さんたちからの、学校給食を食べさせるかどうか、という質問の返答を聞いた。牛乳は?添加物だらけの食材は?アレルギーはないけれど、これまで食べさせてこなかった食材を毎日、食べさせることについてどう考えていますか?小学校に入る、ということは子どもはもちろん、親にだって生活のスタイルが変わることを意味する。さまざまなことが、波のように後追いしながら覆いかぶさってくる。

返答者は私の大好きな料理教室の先生。料理教室、と銘打っているけれど、生き方そのものをサポートするような懐の深い、面白い人だ。

先生いわく、10歳くらいまでの子どもはみんな一緒、というのが好きらしい。安心するし、楽しい。だからアレルギーがあったり、どうしても避けさせたいということ以外は、自分はみんなと同じ、ということを優先しまーす、と返答していた。先生のお子さんも今年、一年生になったのでいろんな人から質問があったらしい。

給食。確かに気になることは多いし、変えていきたいことはもちろん、そもそも給食って何かについて、もっと考えて実働してほしいなあと思うことがたくさんある。先生だって気になってることはあるし、調べればたくさん出てくるとは思うけれど、私は調べません、と言っていた。理由は『子どもはみんなと一緒、が好きだし安心するから』。成長の過程で体験できることを阻害しない。それが先生の優先事項だ。

私には子どもがいないんだけれど、いろんな人の子育てをなんとなくみていて、成長を阻害しない、ということを優先することの大切さと難しさを感じている。実際に子育てしていたら、そんな余裕はない、というご意見もあるだろうし、外からみてるから感じることでもあるのかもしれないけれど、幸いうちには犬がいる。私のような環境の者には、子どものことって犬に当てはめると分かりやすいことが多いのだ。

犬って意志表示もするし、こちらのサポートもしてくれるけれど、人間社会で暮らしている以上は、人間の都合に合わせて人間がやらないといけないことが圧倒的に多いわけで、そういう意味では小さい子どもと暮らしているのを変わらなかったりする。しかもそれがずーっと続く。

たとえばごはんや水、トイレや散歩など、日常生活のほとんどの作業を犬は自分一人でできない。なんらかの形で人間が人間の都合で準備しているわけだけれど、たいていの場合、確実にこっちの都合のみで決定されていて、あっちの希望はそもそも加味されていませんよね、ということが多いのだ。犬を観察しているとよくわかるのだけれど、食事の量や時間、排泄のことや散歩のコース、時間、出歩く時間帯や寝る場所のコンディションだって、年齢はおろか、季節や日によっても違う。犬の要求を受け入れる必要はなく、人間社会で暮らしやすいように人の都合に合わせるように躾るべきだ、という意見の人もいるけれど、すごく極端な言い方をすれば、それって18世紀くらいまで犬が鳴くのは内臓が軋んで音を立ててるから、と言ってた科学者たちと感覚的にはさして変わらないような気もする。だって見れてばそうじゃないことが分かるのに。そしてそれは人も、他の動物も、植物だって同じだ。

相手の都合を無視して規則正しく、できるだけ正確に、を基準にするのって基本、軍隊式だなあと思うのだ。確かに生物としての人は、同じことを繰り返すことに安心を覚え、好む、という性質を持っているらしいから、基本的に悪いことではないのだと思うけれど、それはあくまでの自然のリズムの範囲内での話であって、それを大幅に無視した規則正しさは好みでも安心でもない。その幅をどう捉えて組み込んでいくかが重要なのであって、規則正しさをひたすら受け入れることは、自然のリズムを受けれいるということの一環なだけだ。(自然のリズムは一見すると、規則正しいリズムを持っているから)

で、これを学校給食に当てはめてみると、確かに添加物や栄養の課題というのは大きい。学校給食、言い方は悪いけれど、見方によったら荒れている、ものね。できれば避けたい、というのはよく分かる。分かるけれども、成長の真っただ中にいるチビッコたちを主にして考えると、彼らが本来持っている『成長する』というリズムを優先するのが一番、ということになる。

大人からみて好ましいものを食する、ということは、みんな一緒が嬉しいし安心を感じる、という特性よりも、優先順位が低い。だって、食べ物の基準は大人の人間が決めたもので、みんな一緒の安心は、子どもが持っている生命の躍動そのものだからだ。

好ましくないものはできるだけ排除したい。それは分かる。気持ちとしては分かる。けれども。生命が阻害されることなく躍動しているなら、おそらく、大人の人間がいま理解している知識の範囲内でつくった基準など、その時の子どもにはそんなに大きな意味はない。たぶん、大人が好ましくないと思うものをはねのけて、どんどん進んでいける。だから大人はそれを信じればいい、と思う。そしてその上で、それとは別に、給食の気になるところにアプローチしていけばいい。いずれ大人になる子どもたちに少しでも負荷を負わせないために。このままだと給食がエライことになるのは目に見えているのだから、変えたいところは変えたいものね。

で、冒頭の話に戻って『そもそもそれはみんなにとって必要?』という私のニーズを探る話。これって同じく、どこにフォーカスするかで見るものが変わってくる。確かにニーズのないところに何かを投げても仕方がないし、ニーズを作り出せなければ必要とされないのだからやっても無駄だ、というこれまで私が学んできた手法は理に適ってもいるのだけれど、もしもそれが私にとって必要なら、他人のニーズは二の次になる。自分が猛烈に水を欲しているならば、他人が水を飲みたいかは別に関係なくて、なんなら自分で飲みほしたいと思うわけで。私にとって必要なものなら、私にとって必要な範囲で存続させるためのバランスをその都度、はかっていけばいい。みんなのニーズは本来、二の次なわけです。

だから、私がニーズを探って後退の準備をしている一番の理由は、それって私にとって本当に必要?と問いかけているから、ということになる。そしてここで大切なのが、言い訳して疑いながらやらない、という姿勢。夢中になる必要はない。でも、目の前にあるものを疑いながらやるのは、幻を相手にし続けるようなものだから、それはやってはいけない、と思う。

なにを優先するか、を決めるその真ん中に、ちゃんと”主役”がいるか。

給食の話だったら躍動してるチビちゃんで、ニーズの話だったら私自身、もしくはニーズを持っている人。何を軸に考えるかで真逆に思えるほどに結論が変わってしまうことはよくあるんだけど、普通に生活していると感情や流れの中でつい、その軸がブレてしまったりもする。でも、本当に必要なことは手放してはいけないよね、とまた思った、という話。

#私の見解


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