葬式
⚠︎気の向くままにブチまけ文章。
書いたのは3/31
ここ5年かそこら、わたしはいろんなわたしの葬式をしてきた。
自信に溢れていた自分の、将来に希望をもった自分の、誰かのことが好きだった自分のお葬式をしてきた。
そうやって昨日までの自分を否定したり、多面的な自分というものの一面をどこかへおいやることで、人生とかいうものを送ってきた。
今日は、自分を否定する自分の葬式をした。
今まで自分が嫌いだった自分も、よくわからない自分も無理無理って思っていたんだけども、やっと、ようやく、自分に対して否定的な自分の葬式をすることができた。
自分を肯定していたものが瓦解してしまって5年、色々ごまかしてはいたけど自己肯定とか普通に無理だったし、何かをやり切ったりスッパリと嫌なことから離れ切ったり出来なくて、こんな中途半端な宙ぶらりんな人間はこの先何をやったってうまく行く気がしなかった。こんなにも不安なのに誰も助けてはくれないし、周りの人たちはどんどん明るい方に向かって行ってしまう。
海の中の1番深いところにいるのが私なのに、これ以上沈むこともできないのに、生きてることをやめるほどの勇気もなかった。生きていることをやり切ってしまうことができなかった。
全部が宙ぶらりん、そんな自分が嫌いで、この先なにをやっても続かなさそう、何にもうまくいかなさそうっていう気持ちが通奏低音のようにずーっと心の奥にあった。
それがこの間、たった一つのきっかけで浮上した。
大学の卒業審査合格だ。要するに単位を取り切ったよ、卒業できるよ、ということを大学から通知された時だった。
こんな私でも大学を卒業できた…しかも四年で!
これは久し振りになにかを"達成"した瞬間だったのです。
そもそも大学にストレートで入れなかった。
大学に入ってから所属した団体、3つあったけどどれも最後までやりきらずにやめてしまった。
就活は離脱組、苦しくて途中でやめて違う道を選んだ。
今考えるとどれもそんなに自分を否定する必要のあることではないんだけれど、やっぱり大勢が達成できているように見えることが出来ないのは結構しんどかった。特に私には。
それから、ここ数ヶ月で自己肯定と自己否定について結構色々考えました、時間があったからね。
自己否定の根源は、他人からの評価と自己評価の差にあるなあ、と思ったりなど。
自分で言うのもなんだけれど、それなりに初動が良いタイプの人間のようなので、周りからすると最初は要領がよくてしっかりしていて、なんでもできるタイプの人間に見えるらしい。それに初動はめちゃくちゃ頑張る。多分ここで上手いこと取り繕わずにポンコツ感を出していけると良いのだと感じてはいるものの、すごく張り切っちゃうしすごく準備もするし、それなりにできる自分を演出してしまう。
なので、いざ苦しくなったり限界が来た時に人に頼るのに気が引けてしまうし、周りから見ても異常なしに見えるので助けが来ない。呼べばいいんだけど、それもなかなか難しかったりする。だって助けに来て欲しい人、めちゃくちゃ忙しいかもしれないし。私と一緒で平気に見えてダメなのかもしれないし。
そうやって自分のダメさ加減を何度も自分が1番近くで見てきて、私はダメな人間だなあって思って落ち込むんだけれど、周りの人はまだ私ができる人だと思っている。
特に私の場合は親がそうで、親にSOSを出しても「あんたは大丈夫」で済まされてしまうことが多かった。今考えるとSOSの出し方が悪かったと思うところもある。今冷静に振り返ってみると、親もそこまでわたしができる人間だと思ってなさそうな気もしているものの、やっぱり兄弟に比べて勉強が得意だったし、期待をしているよ!というオーラをどうしても感じてしまって(幻覚だったかもだけど)、みんなが思っている自分にならなくちゃ!っていう焦りがとても強かった。
この焦りが圧倒的に自己肯定感を潰していたような気がする。
逆もまた然り。自分はもっとできる!って思っているのに周りからの評価が不当に低い場合。自己判断がおかしい場合はどうにもならない部分もあると思うんだけれど。すごく頑張った授業の評価が悪かった、とかは意外と堪えるものだから。
最後に自己評価と実際の自分が離れている場合。本来の私はもっとできる、というのと私は現状これしかできていない。というやつと、思ったよりできているのに自分なんか…
というやつ。
これらがあることは別にすごく悪いことではないと思う。けれど、いろんなジャンルで同時にそれが起こったり、その時々の環境によったりして、自己肯定感を保てるギリギリのバランスを崩した瞬間に坂道を転がり落ちることになってしまうのかな、などと思いましたまる。
これから抜け出すのは、一発逆転をするのがいいのかな、と思ったりもしたんだけど、やっぱりいわゆる「人並み」っていうやつを達成することが1番大事になってくるのかな、と思った。
人間として生まれて社会の中で生きていれば、多分どうしても世間と自分を相対的に見ることが染み付いているはず。自分が持っている価値観っていうのは、人それぞれだけれど、人生5周目みたいな悟りきった人とか修羅場をくぐり抜けまくった超人とかでなければ、だいたい世間様が基準だと思う。
その基準から下側に外れてしまった、と自覚したり、他人に指摘されたり、社会に指摘されたり。そういうときに自己肯定感は失われやすいし、それまで優等生をやっていた人ほどその反動でしんどくなってしまう傾向にあるのではないかな、とふと考えたりなどした。
なんか言いたいことがぐちゃぐちゃになってしまった気がするのですが。
私は大学を四年で卒業という世間様の価値観をくぐり抜け直したことで、「あ、こんな自分でもできた。もしかしたら次も頑張れるかも。」と思えたし、他人の、世間の基準から外されたのでは、と思うことから抜け出せた。別にそんなの外れてていいと今なら思えるし、人がそうなっているのを見てもなんとも思わないんだけど、"世間の中でできる自分"に肯定されて20年くらい生きていた私にはちょっとしんどかったみたい。
これはあくまで私の体験談なので、全ての人に当てはまるとは限らないけれど、手っ取り早くわかりやすい基準を満たす、というのは結構自信を取り戻せるものだな、と思ったりなどした。
本当は世間の引いたレールなんてアホらし!それがなくてもわたしゃ生きていくわ!!!という強さがめちゃくちゃに欲しかったのだけども、レールに沿って歩き続けることのしんどさも学べたし、自分が弱虫でちっちゃな人間なこともちゃんと分かれたのは大きな収穫だったかな、と思います。弱虫でちっちゃな人間だけど、それでも自分が嫌いじゃないな、と今は思います。
最後に
2019年度、大学を卒業した私は本当なら就職しているはずなのですが、ギャップイヤーとしてモラトリアムの延長を決めました。
大学在学中に長期で海外に行けなかったので、ワーキングホリデーという形で少し日本から出てみようかな、と思ったのです。
知らない世界を覗き見してみて、それからお仕事をはじめてもいいんじゃないかな、いろいろ焦らなくても死なないな、ゆっくりやろうと思った結果です。幸い親も二つ返事で了承してくれたので(今頃になって小言言われたりもするけど)、のんびりゆっくりやっていこうかなと思います。
一年くらい前に、本当にいろいろしんどくて「元優等生より愛を込めて」という記事を書いているのですが、まさかあんなに辛くて辛くて仕方なくて、今読み返すと小っ恥ずかしいような文章を泣きながら書いて投稿していた私が、大学卒業の1つでこんなにケロッと前向きになれたのはとっても驚いています。そんなに深く悩んでいなかったんじゃないのか、という疑念もわいてくるかもしれませんが、人には人の大地獄。わたしにとっては今までの人生でここ5年が1番辛かったので、よく頑張ったね、と自分を褒めてあげようと思います。
つまんなくてちっちゃい自分も悪くないよね、自分を否定して辛い思いをさせるような自分のおかげで気付けたこともたくさんあります、ありがとう。でも死んでもらいました。もう会いたくないな、さよなら。
それから葬式を終えて少し明るい表情をしている新しいわたし、はじめまして。