私のエヴァは旧劇で終わっていた。〝余白〟と向き合うということ。
私の中のエヴァは旧劇で終わっている
・作品の、今と昔
「あれはどういう意味だったのか?」
「現実の自分はどう生きれば良いか?」
というようなことを、夜中につい考えてしまうような作品が好きだ。アイデンティティに関して深く考えさせられる作品は、なんとなく昔は多かったように思う。
逆に今は少ないように感じるわけだが、それは何故なのだろう。
それは、今日の人々(特に若い層)は昔に比べて表層的な、ビジュアル的に分かりやすいものを求めているからではないかと、私は考えている。(どこまでが昔でどこからが今なのか、という話は一旦置いて)
例えば、TikTokやYouTubeのショート動画、あるいは「◯◯分で誰でもすぐ分かる□□!」といった類のもの。それらは全て、手軽に短い時間で、簡単に手に入る情報(=インスタントなもの)である。さらには、それらを0.5秒見ただけで次に飛ばしたりするそうだから、驚愕である。
しかし、そのような柔らかいものばかり食べていては、固いものを噛み砕く力を得られない、ゆくゆくは失ってしまうだろう。検索すれば簡単に情報が手に入る世界だからこそ、誰かに答えを教えてもらうばかりではなく、立ち止まって自分でもよく考えてみるという手順が必要なのではないだろうか。(検索しても本当の意味での答えは得られないわけであるし。)
そういうわけで、1から100まで全て説明してくれる作品よりも、自分たちで長い時間をかけて考える必要のある作品が、私は好きだし、余白がある方が美しいと感じる。
・エヴァの、今と昔
エヴァンゲリオンという作品は、TV版+旧劇場版が非常に良かったと思う。新劇場版が悪いというわけでも、好きじゃないというわけでもない。ただ、根本的に何かが足りないという気がずっとしている。
恐らくそれは、“アイデンティティ論” にテレビ版ほどは踏み込んでいないからだろう。
シンエヴァで多少はそうしたことも描かれたが、わざわざ精神世界を現実世界に持ってくることで、見える形で心を描いていた。それゆえ登場人物の心情を考察する隙間も少なくなり、世の中に溢れる考察の内容は「インパクトを起こす方法は?」など、物質的なものについてばかりになってしまった。
・旧劇の完結のかたち
「あの台詞はどういう意味で言ったのだろうか?」「あの人はどのような生き方を望んだのか?」と夜中に考えてしまうような、心の中の複雑なものが、やはりテレビ版や旧劇には多くあった。だから私はそれに惹かれたし、作品を愛することが出来た。だから旧劇の結末は心に強く刻まれた。
そういう意味で、私の中のエヴァンゲリオンは旧劇で完結していたのだと思う。
余白のある作品
先ほど、最近の作品の多くがビジュアル的に “分かりやすい” ものばかりだと書いたが、やはり心情描写等に余白を残さないものは観ていて退屈だし、全てに答えが出ているのは面白味がない。長々とした不必要な説明ゼリフ、あからさまな伏線などなど…
自分で答えを考えたいし、考える過程を楽しみたい。そこまでを含めて作品は作品として存在するのではないか。
だから作品を作る人は、視聴者をもっと信頼して欲しい。答えを丸投げしてもいい。
そういう作品が今後増えれば良いなと思っている。
塩ラーメン