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天赦日のご利益、大いなる愛、闇と光

アメブロ「ローザのこの世をまるごと楽しみブログ」

から2020年2月5日の記事です。

天赦日-ご利益、大いなる愛、闇と光


いつもご覧くださる皆様、

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皆様にとって良い事が

たくさんありますように!


1 2次元向きと3次元向き

(現実世界向きと精神世界向き)


本当は、現実世界と精神世界のバランスがよいのがよいのですが、

特に東洋系の占術では星の偏り具合で、1人の人間が現実世界向きか

精神世界向きを見ることがあります。算命学や四柱推命などはかなりはっきりでるものです。

私は完全に精神世界向きの星が多く、その事から占い師や霊能者が適職であると言われてきました。

精神世界にあまり傾きすぎている人は、どうしてもこの世ではメインになる現実世界を生きるのは不慣れで肌に合わないものです。

おそらく、魂のレベルではあえて合わない環境にやってきたのだと言え、チャレンジャーな魂であると言えます。

HSPの方などは良い例ですね。

2020年2月5日は暦の下段に書かれていることを引用すれば、天赦日といい、100もの神様が天に上がり、万物の罪を赦す日であると言われています。

神様が自分を含む、人間どころかたくさんのものを

赦してくださるのだから、自分をしばって赦せない人はその赦せない自分を赦すこともよいのではないかと思います。

まだらこしい理由ですが、自分の人生・現状を占術を含めて見つめなおしてみようと思うのです。

2 手探りの人生


世の中には、知的障害がなくても、話すことも書くことも聞いたことを覚えることもどれも苦手な人がいます。

よく視覚と聴覚の認知に関しては、見るほうが得意である視覚優位か聞くほうが得意である聴覚優位のどちらかにふれることが多く、話す能力と書く能力も、どちらかにふれることが多いとされています。

しかし、実際の自分を見つめなおすと、見て何かを覚える事も聞いて何かを覚える事も苦手で、話す事も書く事も苦手なのです。つまりはインプットとアウトプットがどちらも苦手であると思います。

まさに、ホロスコープや紫微斗数によく出ている、コミュニケーションや基礎スキルの部分に問題と因縁があるそのものです。

それでは数十年もどうやって生きてきたのかと言えば、野生生物のように己の勘だけで生きてきたと言えます。常に手探りという事です。

特に話す能力と書く能力に関しては、物事を順序だてて考えて、それに対して考えをまとめ人に伝えたりする重要さはよくわかっているものの、ある一定のところにくると、何者かが上から板を押し付けているかのような感覚にさいなまわれるのです。ここから上はダメですとでも言うようにです。

現実としては、その板をぶちやぶろうとするものの、こえられないまま今に至ります。自分でこえられないならば、他人のやり方をお手本にしようと思い、それをまねるもののうまくいかず、そこに神経を集中させると、ものすごい不自然なものになってしまいます。

私にとっては、母語である日本語も英語と同じで外国語のようなものなのです。だから、ゼロ初級レベルの留学生の担当教員になれたのかもしれません。

3 つまるところは既定路線か


あらゆる占いの先生にみていただいて言われることはたいてい一緒なのですが、それを何とかしようと、解決方法をとろうにも私の場合はそこに行く道がない場合がほとんどです。

それでもナノレベルの可能性にかけて、その解決方法をとろうとするのですが、無視できないレベルで横やりが入り、最終的には粉々にされます。

リアル賽の河原の石積みのようなものです。

ただ、守ってくれるお地蔵さまはいないので、鬼と格闘しながら石を積み上げます。

それのくりかえしであり、焼け野原に建物を建てたそばから爆弾が落ちてまた焼け野原になるというイメージです。

何回も書いていますが、冥王星とオポジションをとっている人は既定路線から外れると、どんな善行も×であり、海王星とからんでいる人については諸説あるものの、私の感覚ではやはり既定路線から外れると×であるそのものなのです。

さらに冥王星ハードであり、全体的にスクエアを複数もちで逆行天体が基準よりも多い人間なので、全般においてスクラップ&ビルドの人生で、なかなか理解されませんよ。多重ヨードもあります。

はっきりいって、この世を生きる上で大多数がもっていた方がよいというスキルをもてない人間がこの世を生きるのは大変つらいです。

つねに丸腰で戦場をかけぬけるようなものです。

普通の人が天才に見えます。

4 既定路線が強いのも自己責任か


よく、こういった状況を

「すべては自分で決めたことであるから受け入れることであり、自分の自己責任だ」

と言う人もいますが、自己責任といって責めるのはお門違いです。

スピリチュアルをつきつめると究極の自己責任論ですが、

自己責任論は意識下でのみコントロールでき、本人の意思がともなうことのみを対象にするものだと私は思います。

自分の無意識の世界・魂の世界で決めたことに関しては、もう努力のみでコントロールが難しいレベルです。

これこそ宿命であり、この世にきた課題でもあります。

既定路線があってもうまくその上を走れている人や、まあ先天運が良すぎる人がこの世をスムーズに渡っているのはある意味、通常運転です。

人より持ちにくい荷物をもっても助けもなく、本来ならば精神世界で生きる人が現実社会で生きざるをえない方が大変なのです。

逆もまたしかりですね。

それでも生きる人はすごいと思いますし、それだけハイリスクでも生きている自分を愛せないのはもったいないと思います。

悲観するどころか、この世をスムーズに生きられた人よりも魂レベルでいったらものすごい修行をしたことになりますよ。

魂が本体で、向こうの世界にいってからの方が長いという説を信じるならば、考えようによってはお得です。

キリスト教的な考え方ですが、この世で宝を手に入れられない分は、天に宝を積んでいるようなものですから。

5 ご利益・大いなる愛~闇と光


私は自分をしばって赦せない人の代表のような人間です。 

生まれ持った課題の影響(オカルト的な要素も多いですが、先天運の困難さ)も、人格形成期に人間らしく生きられなかった事も大きく、自分の中にある自己嫌悪感や自己排除感と常に向き合うことを余儀なくされてきました。

占術を理由にしてもよいならば、そのこともよくあらわれているような先天運でした。

そういった背景があるからこそ、私は生きる事は戦いであると思ってしまうのかもしれません。

現実世界を見まわして、もし、諸神仏様に愚痴が言えるのならば、せめて、「見る」「聞く」「話す」「書く」の4つのうちの何か1つくらいは普通レベルのものをほしかったと思うことがありました。

今ではそれもご利益であり、大いなる愛であると思いますが、現実を見つめるとたまにつらくなる時があるのです。

なぜご利益であり、大いなる愛かと言うと、光が光である事を強烈に知らせてくれるからです。

光が光である事を知るには、闇というものを知らなくてはならず、闇があるから光のまばゆさや美しさがわかるのです。

光しか知らない人間は光のまばゆさや美しさを永遠に知る事ができません。

そして、大きい闇を知らされるという事は、

それだけ光が大きいという事なのです。

つまり、手に入れる事が難しくない事が手に入らないからこそ、その事が尊く感じる事ができるのです。

そう考えると、たとえ野生生物のように生きてきても、そうやっていくうちに身につけられたものもありがたく思えるのです。

#既定路線 #先天運 #ホロスコープ #海王星 #冥王星 #闇 #光

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