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近代の根本的矛盾としての強制不妊手術・優生思想・障害者差別(1)

作業するときはポケモン、スーパーマリオなどのゲームBGMを流すことが多い、ほがらかです。
今回は先日開催されたゼミ「旧優生保護法と障害者差別」の内容についての解説と、「優生思想」の持つ危険性について展開してみようと思います。
書いていたら文字数が多くなってしまいましたので、(1)日本で強制不妊手術が推進された実態、(2)なぜ障害者差別が生まれるのか、の2つの記事に分けて論じます。
ではまず、日本で強制不妊手術が推進された状況を見ていきましょう。

〇優生思想とは何か


 重要なキーワードは「優生思想」です。まずこの言葉の持つ意味についてみていきます。
「優生」とは、「優れた子孫」の出生を促すと同時に「劣った子孫」の出生を防止すること
を意味する言葉です(松原2003)。優生思想とは以上のような考えを容認するイデオロギー(考え方)です。
旧優生保護法はこの観点から制定され、様々な疾病や障害をもつ人々に対する、本人の意思にもとづかない不妊手術を合法化してきました。(優生保護法第一条「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」)。優生保護法が1948年に成立し1996 年に「母体保護法」に変わるまで約50 年のあいだ、母体保護目的のものも含めて約8万5千件の不妊手術が実施され、「本人の同意を要さない不妊手術」の件数は、1949 年から1996 年の約50 年間で、おおよそ1 万6500 件実施されました。

〇国・地方・民間によって推し進められた不妊手術
優生手術は国の主導、地方の協働、民間の共同で全国で行われて行きます。1957年には旧厚生省が「各都道府県衛生主管部(局)長」宛ての文書で、手術件数の少ない県を暗に批判した上で、手術実施に伴う費用が国の予算を下回っていることを理由に、各都道府県に件数を増やすように求めていました。また、1972年には公衆衛生局長名の都道府県知事宛て「通知」で、本人の同意がない事案で、都道府県優生保護審査会による手術容認の決定が確定した場合に、「本人が拒否しても手術を強行できる」、「不良な子孫の出生防止」という公益上の目的があるため「憲法の精神に背くものではない」との解釈、見解を示し、優生手術の合憲性を広めていました。
さらに、手術の具体的な方法についても国は通知を出しています。1953年の厚生事務次官通知では「真にやむを得ない限度において身体拘束、麻酔薬施行または欺罔等の手段をもちいることは許される場合もある」としました。また、禁止されていた「不妊のためのレントゲン照射」について、旧厚生省は学術研究目的なら「差し支えない」と、京都大学医学部からの問い合わせについて回答しています。
これらの通知が見えてくるのは、通知などを通して国が優生手術を推進していたことです。しかし、見逃せないのは地方の協働です。北海道では、道内の医師に対して、優生手術の申請は「医師の義務」として申請を促す指針を配布していました。障害者施設と共同し、優生手術を障害者に優生手術を強制している事例も存在していました。また私たちが住む宮城県でも地方の協働は見られました。

〇宮城県の地域ぐるみの推進体制「愛の十万人運動」


宮城県では優生思想の普及を掲げた「愛の十万人運動」が行われました。教職員組合、PTA、地域婦人会、社会福祉協議会、公民館、医師会、肢体不自由児協会などの多くの民間団体が参加しており、文字通り地域ぐるみで進められました。
この運動の始まりは知的障害児施設と養護学校の整備を目指した運動でしたが、次第に優生政策にからみとられていきます。その背景には、知的障害児やその家族が不幸な存在であると一面的に把握していたことがあります。
当時の知的障害児の親たちは「軽いものには社会自立、重いものには温かい保護、親なき後の保障」を求めていました。しかし「県民運動」は「受胎調整や家族計画の思想が普及して、県の人口はだんだん増加の速度を落としております。それなのに精薄の家庭は全然減っていません。悪貨が良貨を駆逐しておるのです。このまま過ぎていったら宮城県民の質はだんだん低下していくでしょう」、優生手術について「宮城県百年の大計として民族の再建を考えるなら、どうしてもやらなければならない仕事です」と当運動の趣意書に記載しています。
「障害者はかわいそうだから、今生きている障害者の福祉は求めるが、障害者が増えると県民の質が下がってしまうから、優生手術は推進する」という、差別意識に満ちた運動でした。先に北海道の事例も見ましたが、このような障害者に対する優生政策は特定の地域的に行われた特殊なものではなく、国の政策にリンクしたものであったと言えます。

〇経済成長、福祉拡充の裏で進められた優生手術


終戦直後には経済と産業が壊滅状態で」あった日本は、1950年代半ばから高度経済成長期に突入し、1964年には「先進国クラブと呼ばれるOECD加盟を果たしました。その背景には優生政策が存在していました。
1960年に池田内閣は「所得倍増計画」にて経済成長の推進力として人的能力の開発と人口資質向上を重視することを決定し、1962年には「国民の遺伝素質の向上」を唱えた厚生省人口問題審議会「人口資質向上対策に関する決議」が作られました。この決議の中では「人口構成において、欠陥者の比率を減らし、優秀者の比率を増すように配慮することは、国民の総合的能力向上のための基本的要請である」とし、優生政策の必要性が公然と語られました。
また高度成長期は、福祉の不足に目が当てられ始めた時代でもありました。1956年の「厚生白書」では経済的復興から取り残された人々の存在を立証し、経済偏向から社会福祉の充実を忘却してはならないと説かれました。
この流れの中で障害者福祉の拡充も進みましたが、「障害者は財政を圧迫するから、福祉コスト削減のために障害児の発生を防止すべきだ」という声も同時に上がりました。1968年の母子保健対策懇話会の意見書では「不幸な児子をもつ家庭の悲劇と、経済的負担の解消」「年々支出されている巨額な国費、地方公共団体の財政負担は大いに軽減するのみならず、生産人口もより多く確保されるなど、そのもたらす成果は非常に大なるものがある」とし、福祉コストの削減を優生手術によって達成しようとしていました。

以上のように優生手術、強制不妊手術は誰か一部の「悪い」人が進めたのではなく、多くの人が、「経済を成長」させるため、「福祉を拡充する」ためにおしすすめてきたことがわかります。(言うまでもなく、いかなる動機であれ、人権侵害は許されるべきではありません。)
なぜ、これほどの規模で、国をあげて障害者の人たちの人権をないがしろにしてきてしまったのでしょうか。
このことを考えるためには、そもそも「障害」とは何なのかから考える必要があります。
後編の記事ではこの議論から始めます。
(続く)

法学部4年 ほがらか

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