父について思う事1

noteは何か有用な知識の整理に向いているとは思えないけど、思ったことをつらつらと書くのには良いなと思う。もともと私は書きながら考え方の精度を上げていく方が良いのでとりあえず父について思ったことを書いてみる

父の事を考えるようになったきっかけ

夏に父が倒れてから私の生活は確実に変わった。介護の仕組みに少し詳しくなったけれど、一番変わったのは「親との関わり方」だと思う。これについては以前の記事を読んでみてください。

父が嫌いだった

私は子供の頃から父が嫌いだった。どこがそんなに嫌いだったのだろうと思い返してみると、「根本的に頭が良くない事」「話し合いが出来ない事」「学歴、育ちコンプが強すぎる事」が大きいような気がする。

まず自分の中の最も古い記憶は「彼が父でなかったら良かったのに」「こんな人は自分の親ではない」という気持ちだ。父は世間的には気前がいい方の人間だと思う。「誰に〜〜をしてやった」みたいな自慢話も多かった。これは彼の育ちに原因があるのだろう。戦前に生まれ、戦後は日本中が貧しかったけど、彼はそれよりももっと貧しかった。小学校も4年生くらいまでしか通えず、大人に混じって働いた。年頃には立派なチンピラになって一時期は半グレみたいな生活もしていたようだ。結婚も3度して、奥さんの一人は自殺したらしい。それでも3度目の結婚相手である母は「悪いところもあるけど、一生懸命働く人」だと言っていた。
私にとっての父は機嫌が良い時はいいけれど、何かあればすぐに怒鳴る人間でしかなかった。とにかく話が通じない。子供だって伝えたい事がある。それを少しも聞いてくれなければ泣くだろう。そういう弱さを父は「(私は)男らしくない、俺が若い頃は〜〜」ですべて処理した。私は覚えてないが、家族で買い物に出掛けた時に、何かで父が私に怒鳴っているのを見た知らないおばさんに「あんたは鬼か?」と言われた話を聞いた事がある。多分本当にそのように見えたのだろう。

最も古い嫌悪感

父に対する嫌悪感の最も古いものは父が買ってきた「家なき子」の絵本だ。これを幼い私(小学校1年ころ)に見せて「お前は家があっていいなぁ」と言った事が、忘れたくても忘れられない。これは「俺は父親としてお前にすごい良い生活をさせてやってるぞ。」という思いがあったのだろう。私は絵本が大嫌いなのだが、ここに原因がある。
その頃はサラリーマンとしてそこそこの給料を稼いでいたが、とにかく上司に気に入られるようにして便宜を図って出世させてもらったようで、同僚からは妬みの対象だったらしい。その上司が亡くなった後は、他の上司に騙されて左遷されてしまった。それを彼は「学歴が無いせい」「その騙した奴が悪い奴だった」という理由にした。どのような働き方をしていたのかはわからないけれど、結局は父が悪かったんだろうな、と自分が働くようになって思った。

父から学んだ事1
自分の人生を誰かにゆだねてはならない。すべて自分の責任の元で、コントロール下に置き、誰かのせいにしてはいけない。

口では大きい事を言う

サラリーマンで出世街道に乗っている時に、父はまさにイケイケ状態だったと思う。
「お前は絶対に大学まで行かせる」
「母さんには働かせない」
「お前には”良いもの”を買って与えたい」

これは「学歴が無いのに頑張ってる俺」という意識が強かったのだろう。私はこのサラリーマン時代の父が一番嫌いだった。結局は騙されて左遷させられた後に、不貞腐れて会社を辞めて魚屋で働き始めた。どこぞの飲み屋だかで誘われたようだが、魚屋の人に「月給40万」と言われて誘われたきっかけで会社を辞めたが、実際に働いてみたら「月給15万(ただし家賃がタダの一軒家を使ってもよい)」という待遇だった。当然、うちは貧乏になった、私は小学4年生だった。

この頃から父のイケイケ感は跡形もなく消え去って負け犬のオーラをまとい始めた。結婚前に手相を見てもらった時に言われた「あなたは大器晩成型だね」という言葉にすがりつき、「いつかは、、、、」という思いはあったようだけど、子供の目にも情けない負け犬に見えた。

その頃よく言われたのは、私は一人っ子だったのだけれど「もしもう一人子供がいたらサラリーマンは辞めなかったな~」という言葉だ。今なら断言できるけれど、彼はそれでも辞めたと思う。負けん気だけが強くて、自分の人生をコントロールしきれていないし、根本的な損得勘定が出来ないのだから、うまくいくはずがない。

それが不幸な幼少期を送らさせられた彼が見つけた処世術だったのかもしれない。しかし、私が大人になって「自分は何を守らなければならないのか」を考えた時に、自分の気持ちではなく家族の生活であるのは明白だ。子供を持つ親にとって家は、子供の「生きていく力を育む土台」でなければならない。こんな事は、どんな時代であろうと、どれだけ不幸な人生を送ろうと、学歴が無かろうと気づかなければならない。それが親というものではないのか?

そこで気づいたのは

「彼は私の父親になろうとしていない」

という事実だった。これは自分が子供を持つようになってからはっきりと理解した。

決定的だったのは騙された魚屋をやめて、三男が経営する居酒屋で働き始めた後に家計が苦しくて、父の母(私の祖母)に相談した時に

「(私に)中学を出たら働いて家計を助けてもらえばいい」

と言われて、それを母に伝えた時だった。今考えると時代も平成になる直前の話とは思えないが、本当の話だ。
母は基本的には父に従う人だったけれど、これには怒り心頭で「私が学費を稼ぐ」と言ってくれてパートタイムの仕事を始めた。

父から学んだ事2
家庭というものは子供が生きていくための力を育む土台でなければならない

何を取って、何を捨てるか

家計が苦しかったのはわかる。しかし、父は我慢をする事が出来ない。ゴルフもやめなければ、酒もやめない。ギャンブルはやらなかったけれ(女はわからないが甲斐性から考えても難しいとは思う)ど、私の為に何かを諦めたり我慢してくれた事はない。公立高校の学費なんて年間で考えればたかが知れてるし、そんなに学歴で苦労したのであれば、普通の親なら子供に同じ辛さを味合わせようと思わないはずだが、父はそうではなかった。いや、もしかしたら中学まで行かせてやったんだからという思いがあるのかもしれない。あまり考えないようにしようと思っていたが、今になっても、「私の父親になろうとしていない」という事実の重さが自分の中に残っている。

そんな父が数年の居酒屋勤務を終えて、調理師免許を取り、自分の店を持つようになった。店は家から近い立地だったけれど、とても繁盛するような場所ではなかった。さらに飲酒運転の取り締まりが厳しくなって、立地の悪い店はさらに客が来なくなった。前述の「大器晩成」という言葉にすがりいつかは繁盛する事を夢見ていたようだが、私には負け戦にしか見えなかった。

目標とする金額を毎日下回る話を聞いて、私は高校受験を併願する時に必要な受験料と入学金さえ払えそうにない事を理解してランクを落とした。行かせてくれるだけでもありがたいと思わないといけないなと言い聞かせて。

しかし、今でもわからない。なぜあのような場所に店を構えたのだろう?それは住宅街の路地裏だった。メニューの量もおかしかった。唐揚げとポテトフライだけで満腹になるような量だった。三男の経営していた店は小田急のローカル駅だったが駅前で若者も多かったから、それであれば理解も出来る。時と場合によって戦い方も変える必要があるだろう。しかし父にはそれが出来なかった。基本的な原価計算が出来ず、経営方針が全て裏目に出て勝てるわけがない。結局7年の間にコツコツと借金を増やして、最終的には全て失って店をたたむ事になった。

父から学んだ事3
戦いの勝負は始める前からついている
負け戦をいくらつづけても何も残らない

会話が通じない人は戦略も持っていない

会話というのはその人をよく表してくれると思う。父は昔から会話が出来なかった。子供が「~~って何?」「どうして~~なの?」と、親に尋ねる事はよくあるだろう。私はそういう事をあまりしなかった。それは何を聞いても

「辞書で調べなさい」

と言われてしまうからだった。辞書というのは語句の意味しか書かれていない。どういう仕組みになっているとか、理由とかは書かれてない。それを知っていたのか知らなかったのかわからないが、父も母も私が聞くことは全てこれで返してきた。そんな事が続けば、どんな子供だって何も聞かなくなるだろう。

私だっていまだにわからない事はあるし、子供の質問にうまく答えられない事はある。でも一緒に考えたり、その答えが見つかりそうな場所を探す事は出来る。最近は子供も大きくなってきたしネットで何でも調べられるので、「大人としての一般論」「社会人としての意見」くらいしか答えてあげられないけれど、「現時点で思ってる正しさを押し付けない」ように気を付けている(出来ていない事もあるだろうけれど)。

中学の頃、父の居酒屋の手伝いをしていた時に、「ヤナカ持ってきて!」と言われた。私は「ヤナカって何??」と聞くと「ヤナカだよ!!!!」と怒鳴られた。ヤナカとは谷中生姜の事で、焼き魚の上とかに飾り付けるやつですね。そんなの言われても中学生にわかるわけないじゃないか。
よくよく思い出しても父との会話はいつもこんな感じだった。私が「ヤナカって何?」って聞くというのは「それが何なのか、どこに置いてあるのかわからない」という意味に決まっている。でもそういう私の疑問を受け入れようとしないんだ。この頃すでに、彼を父親という存在として見る事が出来なくなっていた。
彼も私を労働力と見始めていたので、それ以来よほどの繁忙期以外は手伝わないようにした。

そんな両親は常々私にこう言っていた。
「公務員がいい」
「サラリーマンがいい」
「水商売はやめろ」
これは父がサラリーマンを辞めた後に言い始めた。なんて狭い世界観なんだろう。私が何を楽しいと思い、何に幸せを感じるかなんて微塵も考えていない。こんなものは「負け犬の後悔」を子供に押し付けているだけじゃないか。じゃあ、お前らは何のためにこんな店をやってるの?

私はこの家に自分の幸せが無いという事を理解した。ここにいてはいけない。

「高校を出たら親に頼らずに生活して大学に行く」

高校3年の夏に私は一人で新聞奨学生の契約をしに神田の日経新聞奨学会の説明会に行った。

父から学んだ事4
~~だから~~である、という思考を持たない人とちゃんとした会話は出来ない
自分の人生を誰かのせいにしている時点で、本当に大事なものは見つけられない

実家が無くなるという事

父の店は私が大学2年の時につぶれた。900万ほどの借金を残して。そして借金と身の回りを整理して、両親は住み込みの寮で働き始めた。

実家が無くなる

当時はこの意味がまだよくわかっていなかった。私は奨学生として働いていたし、帰る理由も無かったからだ。

しかし卒業の時期になってみると就職氷河期。先輩たちは軒並み就職活動に失敗してアルバイトみたいな仕事で就職をしていたが、私はあまりにアホらしくて就職活動をしなかった。バンドもやっていたし、バイトしながら生活していけるだろう。しかも親は寮の一部屋くらい貸してもいいと言っていたので、卒業後はすこしのんびりと寮に住んで今後の体制を整えよう。インドにも旅行してみたいからバイトしつつ海外で生活をしてみたいと能天気に思っていたのだ。

しかし卒業を間近に控えていた時期に両親の勤務していた男性単身者寮が不景気を理由に閉鎖になり、ある企業の女子柔道部の寮に移籍したのだった。女子寮だったので私はそこに入る事が出来なかった。

自分の人生を誰かに頼ってはいけないんだ、、、、と自分の甘さを痛感した。

私はなけなしの貯金をはたいてアパートを契約し、警備員のバイトをして生活しながらバンド活動をしていた。

すくなくとも高校を出てから大学卒業まで自分で生活をしていく中で、私には「食べていく事が出来る自信」のようなものがあった。しかし大学を卒業してみれば、その生活はあまりに華の無い「食べていく事しか出来ない生活」で、貯金なんぞまったく出来ずに這い上がれないまま時間だけが過ぎていく生活だった。

俺は自由だ、、、、、
でも自由はとても辛い、、、、
自由の対価は重い、、、、、

ギリギリの生活になった時に、人は「来月も生きていけるように」「今月はなんとか生活出来るように」「明日、なんとか生きていけるように」と、「短い目標」で生きていくようになる。病気でもしたら即アウトの状況だ。就職活動なんてする時間も無いし、証明写真や履歴書も買えない。就職してから給料がもらえるまで耐えられる体力が無い。

詰んでる?俺の人生、詰んでないか??

それはある事をきっかけに大きく変わっていくのだけれど、それはまた次回へ。

父から学んだ事5
給料が少ないときの衣食住に対する比重は重過ぎるくらい重い
帰る(働かなくても生きていける)場所が無い事はとてもつらい
人生の可能性は金が無いほど小さくなる




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