そんなこと言われたって、自分でもどうしたらいいか分からなかったんだもん!
と、タイトル通りに言葉にして言えたら良かったのにね…
と、今の私は思いますが、そのときは、自分がどんな感情が湧いているのかさえも感じようともせずに頑なになっていました。
…いや、
自分の中に湧いている感情に向き合うことを避けている私がいた、というほうがしっくりくるかも。
だって、言葉には出していないだけで、態度や表情は怒っていたり、ムカついている感情はダダ漏れだったよね。
怒る自分を受け入れがたくなる理由の一つとして、
「怒るという感情を表現したり態度で表すものではない。怒るのはダメ。怒ったところで何にもならない。」
と、本当は怒りが湧いてきているのに、無意識のうちに、
「そんな自分はダメだ」
とジャッジしている私がいるんだと知る
ではなぜ、怒りに対してジャッジする私が出てくるのか?と思うと、小さい頃の私が浮かんでくる
何か気に入らないことがあり、怒るという表現で身近にいる大人に訴えるが、
「あぁ、面倒くさい」
と面倒くさがられたり、呆れられるという態度や表情をされて無視されたり、
「なんでそんなに怒る必要がある?」
と逆ギレされたり、
「そんなに怒っても無理やし」
と最初から相手にされなかったり、
お店で癇癪をおこして駄々をこねようものなら置いて帰られそうな不安な感覚も何か常にあった
私の怒りにまつわる記憶は、
"自分というものが無碍に扱われたり、蔑ろにされる"という印象で多くを記憶していたから、
"自分が怒る🟰自分が無碍に、蔑ろに扱われる"
という記憶になっていたのかも…と今、書きながら思った
そして"自分が無碍に、蔑ろに扱われる"というのは、私にとってはなんとも悲しくて寂しい気持ちが湧いてくるものだった
そんな悲しさや寂しい気持ちがあるんだということと向き合うことを避けていたし、受け入れ難い自分もいるし、受け入れるまでの勇敢さもない私がいる
今までも怒りの感情について学んできたが、知識だけ身につけていただけで、実践→実感するまでに至っていなかったことも知る
それならば、今からは実践して実感していく必要があるみたい…
ということで、自分の中に"怒り"という付箋で今は格納はされていないが、
"理不尽に感じていること"
"何で、そうなるんだよー!おかしくないか?"
"なんか、それ違わないか?!違うだろ"
"もっと、こうしたほうが良いんじゃないの?"
"なんか、それヘンだよ"
という付箋で格納していることは、本当は自分の中に湧いていた怒りからなのかも…と思い、振り返りながら付箋の張り直し作業をしていたら、あれもこれも、
"何で、そうなるんだよー!おかしくないか?"
と憤ることが、めっちゃあった!!
こんなにあったことを無いものにしていた自分にびっくり
そりゃ、感情の感じ方が不自然になるのも当然か…
まずは、怒りの感情をそのまんま感じ、受け止め、表現するところから練習だな…
…と、ここまで書いたところで、手の誤動作で文章が目の前で全部消えてしまい、びっくり
プラス、きっと今までなら表現しなかったであろう
「私の手の誤動作のバカー!今までせっかく書いたのにー。くそぉ…」
と言ってみたあと、冷静に考えたら、ただ、
"全て選択"して"カット"しただけで、また
"ペースト"したら元に戻るかも?と思い、その通りにしたら復旧した。
復旧出来なかったら、また書く機会がきただけだ…と思うこともできる。が、私はそんなに、出来事を何でも善きに捉えられるわけでもないし、寛容でもない。
やはり、消えてしまったら悔しいし残念に思う。
今までは、そんな自分も自分が認めていなかったんだな…と、コピペの誤動作から知るのでした
これからは、清々しく気持ちよく怒る練習をしていこ
本当は怒りたくなるくらい、
「もっと、より良くしていきたいんだよー!」
という気持ちがあるんだものね
怒りについて参考にしているサイト
十種類の怒り
怒りはポジティブなエネルギーである
過去、このサイトを書き留めていた自分に感謝
今、また自分に役立っているよ