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人はなぜ拘束という不自由を求めるのか

こんにちは。
サロン鳥の巣 主宰の間宮 ゆわこです。

なんだか論文みたいなタイトルになりましたが、要するにマミフィケーションを体験した昔の私の話が主です。
マミフィケーションについての個人的見解も乗せています。
どこかで誰かの胸にも響くのではないかと思い書かせていただきます。

私はそもそもパートナーに出会うまでマミフィケーションという世界があることすら知りませんでした。
私はただ、推しが縛られていた。という理由でSM界隈に飛び込んだものですから(笑)

で、私が初めてマミフィケーションをパートナーにしてもらった時の感想は
「なんだこれ。なんか安心するけど、なぜ安心するのか分からない。楽しい…のか…?」
でした。
マミフィケーションをもう数年やっていますが、たまに思い出してふふっとなる時もあります。

ここで注目したいのは安心という感想。
私は、安心していたんだ。と、気付いてしまった訳ですね。
実家にいた頃は普段から安心という感想を当時21歳頃の私は感じていなかったんです。
あ、今はパートナーと住んでいるので、面白いことを素直に面白いと思い、不安とは少々戦いますが昔よりはなく超安心して暮らしています。
その時、素直にこの人は安心していい人なのかもしれない。と。この人は私を不自由にもしてくれるけれど、自由にしてくれる人だ。と思ったのを覚えています。

不自由って凄いことかもしれない

そう思った当時21歳頃の私。
そこから拘束されることに興味を持ちます。
たくさんパートナーとマミフィケーションをしました。(マミーに対して超高耐性があったようです)
縄でも縛られてみました。(ただ、縄は私にちょっと向いてないと思い最近はあまりしませんが…)
そこで得た感想は、不自由なことに安心する。と言うこと。
不自由と言われて何を想像するか、考えた事ありますか?
私はその昔、父の意向で長期休みの際、父方の祖母宅にほぼ1ヶ月監禁に近いことをされていたことがあり、不自由は怖い。嫌だ。と不自由は一種のトラウマでした。
不自由で自由を得ることを考えたこと無かったのです。
マミーという動けないという不自由は、近くに必ず居てくれる。という嬉しさがありました。
表すなら、赤ちゃん。
おくるみに包まれているような安心感。生きているのに死んだかのように動けない拘束感。
それまでの生い立ちや生きていることへの苦しみから解き放たれた【安心感】という言葉に無縁だった私は、一気にマミフィケーションへと引きずり込まれて行きました。
で、見出しの言葉になるわけですね。
「不自由って凄いことかもしれない」

拘束は安心、拘束は興奮

私にとって拘束されること、分かりやすく言うとマミフィケーションをされることは何度も言っている通り安心です。
ただ、放置が苦手なのです。
その理由は多分どこかへ置いていかれることが苦手だから。なのかも知れません。
もちろん、マミー中に放置されて無機質なモノのように眺められているだけのようなことが好きな人もいます。
私は途端に放置されると怖く恐ろしいものになってしまうので、ずっと隣で遊ばれている方が好きです。
あとは単純に暇というのもあります。
私自身多動気味なので、動けないの嫌ー!という気持ちの時もあったりしますが、どれだけ動いたって向きは変えられるけど(ちなみに自力でうつ伏せにはなれますが、仰向けに戻ることはできないので助けてもらいます 笑)テープやフィルムを破ることは出来ず、私はああ、拘束されてる!!と改めて思い知り興奮する起爆剤となり得るのです。

ちなみに最近は、パートナーと暮らすことで絶対的安心感を得たのか、同棲するようになったからなのか分かりませんが、プライベート2人きりでマミーをすることは少なくなりました。
あ〜これがよく聞く一緒にいるとSMしないやつね!と思っています(笑)

一方、S側の意見

私のパートナーであり、サロン 鳥の巣 共同主宰、ハシビロ コウ。
実はこの人も元々M側の人間だったのですが、マミーの供給が少なく、需要側に回った人間。
今では、「自分がマミーされるのは恥ずかしすぎて無理(笑)」と言ってしまうほどにS男性となった訳ですが、マミーを「楽しそう!!」という理由で始め、実際やったら楽しかった。紆余曲折あり需要側へ回った。なるほどなぁ、楽しいが勝っちゃった人ね🤔
そんな彼にも、拘束されて安心感があったそう。
なぜ安心するのか、と聞いてみると「義務感ちゃう?」と言われてなんか納得してしまいました。

義務感ってなんだ?

そもそも義務感ってなんだ?と思っている訳ですが、"人間としての義務"、私が思うにきっと生きること。
臨死体験のようなものができるというマミフィケーションという行為に、働いたり、人間関係に悩んだり…物理的・精神的ストレスなど日常からの解放を求めているのかも知れない。そう思います。
現代社会に生きる私たちには、時には生きることを辞めるという選択もありかもしれません。
ですが、実際に現代社会からあの世へ行ってしまうというのは周りの人にしてみれば、酷く酷く悲しく虚しいことです。
そんな私たちが出来る現代社会を生きる義務を考えないという行為が、マミフィケーション等の物理的拘束されるプレイなのだと私は思います。
まぁ、実際マミーってミイラのことですし(笑) 


まとめ

生きるという不自由に対し、物理的拘束で自由を得る
それはきっと、自分の心の平穏を保つために必要なことなのかもしれない。
そう思っている訳ですが、あくまでもこれは私の見解です。
違う意見などありましたら堂々と送ってください。

なんか結局論文みたいな締めになった…と思っていますが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

サロン 鳥の巣主宰 間宮 ゆわこ

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