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静かな旧正月。

今年のソルナル(旧暦の正月)は夫の実家のある田舎で過ごした。

去年も一昨年も、ソーシャルディスタンシングが実施あるいは勧告されていたので、 秋夕(旧暦8月31日)や旧正月など人口移動の激しい時期に帰省するのは控えていた。なので旧正月当日を田舎で過ごすのは実に3年ぶりだ。

夫の実家はほんとうに田舎なので、自家用車のない私たちは往復だけで一苦労だ。だから、気軽にたびたび訪れることはない代わりに、一年のうち3回、 盆と正月そして義父の忌日に行なう祭祀(チェサ)だけは「必ず行く」というのが夫の自分ルールだ。他の兄弟はそのときどきで来たり来なかったりだったので、三男である彼の個人的なこだわりだったんだろうけど。

(祭祀という風習については思うところが一つや二つではなく、ここに書きかけたけどうまく書けなくて削除した。それはまた、別の話として。)

夫の実家は、盆や正月の名節に欠かさず祭祀はするが、ちょっと独特なケースといえるかもしれない。
義母は高齢で、ずっと前に足腰を痛めて以来もう大量の料理をすることはできず、祭祀のたびに一番上の兄が総菜屋に注文して祭祀料理を買ってくる。私たちが結婚する前からそうなっていたようだ。
夫の二人の兄は生涯独身で、若い頃に実家を離れそれぞれ一人暮らしをしている。正月に実家に集まるといっても、奥さんや子どもたちがいるでもないのでわいわいした賑やかさとは程遠い。二人とも穏やかで口数も多くないタイプで、私につまみを持ってこいだの、果物を剥いてこいだの言いつけることは一切ない。祭祀の日は長兄か次兄のどちらかあるいは稀に二人ともが来て、大体お酒を飲んだりごろごろしたりして過ごす。

そういうわけで私は、祭祀料理のジョン(肉や魚に卵をまぶしてごま油で焼くもの)を一日中焼き続けるとか、「おい、ビール」という指図に従うといった屈辱的な苦行は味わわずに済んだ。

とはいえ、田舎の家で過ごす時間は特に居心地のいいものではなかった。
古い習慣が骨の髄まで染みついている義母は、あくまでも台所に男は立たせず、朝5時前に私だけを起こし一緒に祭祀の準備をする。
なにより苦痛だったのは、いつなんどきでも白米を大量に炊いておき、三度の飯を食べさせようとすることだった。酒飲みで小食な男性陣は、朝食や昼食を時間通りに取ることはめったになく、日中はそれぞれ腹が減ったら残り物を軽く食べるので十分なのに、義母は必ず朝7時頃と昼12時頃に「飯の支度をしないのか」と私に言うのだった。みなさん食べますか、と聞くと大抵要らないと言われるのだが、義母は頑なに米を炊いた。そうしてジャーの保温の表示が十数時間になり、中のご飯が黄色っぽく変色していくのを見るのがストレスだった。

それでも、義母がいたから実家の時間には節目があった。私にとって心地良くはなかったがそれなりの緊張感があった。

一昨年、義母が療養病院に入ってからは、実家は時の止まった家となった。夫と私はコロナ時局のあいだ、名節の日から少しタイミングをずらすなどして、家の風通しと掃除を兼ねてやはり年に3回ほど田舎に通っていた。今年の正月は、義母のいない実家への何度目の訪問になるのかは忘れたが、寂寞とした古い家で過ごすのもいくらか慣れた。

テレビすら壊れてつかなくなった部屋で、ほかの家族が来るまで私と夫の二人でいる時間は、静けさそのものだった。
やることがないので二人とも寝転がってスマホをいじったりしていたが、ふと気づいてみると、耳が痛くなるような完全な無音のなかで二人がじっとしているのだった。思わず笑ってしまった。なんという正月だろう。

その後、実家に一番近いところに住む妹家族、そして長兄が来て、とくに妹の末っ子である4歳の甥っ子がいてくれたおかげで、家は久々に少しの賑やかさで満たされた。

今後の盆と正月をどうしていくのか、この家をどうしていきたいのか、私にはわからないし、夫に何度聞いてもはっきりした答えは聞けない。私もそれ以上踏み込む気はなく、あくまで「そちらの家族」が考えて決めること、と思っている。
私がここを「夫の実家」ではなく「うちの田舎」のと呼べるようになるほどには緊密な時間を重ね切れていないままだ。

田舎特有ののどかさを満喫しつつも、自分の居場所でないぎこちなさはずっと付きまとう。静かな旧正月が過ぎていった。