在韓在日コリアンとして暮らすということ。
数日前、口の端にいわゆる熱の花、口唇ヘルペスが突然できた。夫はじめ会う人皆に「疲れてる?」「ストレス溜まってる?」と聞かれるが、元来わたしは”致命的”なくらい健康で身体がつよいため、本人はむしろ身体に鈍感な所がある。別にそれほど疲れてもいないんだけどな、強いて言えば暑すぎるくらいかな、と思ってた。
3日前、遅くに家に帰っての私の態度に、夫がくどくど「何か機嫌悪くなることがあったのか」と聞く。なんもないよ?なんでそんな事聞くの?と否しながら、寝床について、よくよく思い出すと小さな事件が確かにあった。その日、数年前から面識のある「知識人」の方に偶然会った。その人が連れの方に私を紹介して下さったのだが、私を指して曰く「この人は日本人でね…」
韓国在住5年め。もうこんなシーンには慣れた。だから、「あんた統一問題を云々する知識人を標榜しながら私に対してその程度の認識かよ」と心のなかで罵倒しながらも、その場では「日本人じゃなくて、在日同胞ですよー」と笑って答えた。
だけど夜、そのことを夫に話すとき、涙がポロポロこぼれて抑えられなかった。
韓国での日常のなかでの隙間に、こんなことはあまりに「よくあること」だ。こんなことでいちいち傷つきたくない。しかし、ふと思う。私は、国籍のある国に住んでいるけれど「移民」だ、と。母国への移民。その矛盾した立場は、日系ブラジル人や日系ペルー人の後世代が日本に「帰ってきて」感じる悲哀に近いかもしれない。同じ、とは言えないが。
そんな、境界人の緊張感(=ストレス)のなか、日々暮らしているのだ。ふと気を抜いたら口唇ヘルペスが出来ることくらい、受け入れて生きなきゃならない。若くもないんだし。
在日朝鮮人という認識をもって生きてきてしまった数十年がある以上、私はこれから韓国でずっと暮らそうとも、(いわゆる)「韓国人」にはなれない、ならない。そして「日本人」でも決して、ないのだ。それはネガティブな感情ではなく、在日朝鮮人というアイデンティティの足元にあったものを、ふたたび発見するような感覚だ。アイデンティティなんてもう、若い頃さんざん悩んだものだから、ひねり出すのもうんざりだと思ったものだけれど。
ともかく、一旦そこに落とし込むのは大事だ。いつまでも自分が使う韓国語に、日本的な、もっといえば朝鮮学校的なイントネーションが消えないとしても、それを恥ずかしく思わないこと。自分が境界人だということを、例え「韓国人」に理解されなくとも疎まれようとも、怯まず言い続けること。
そういう境界上の視点から世の中をみれば、見えないものが見えてくる。小さなことに対して「?」を感じ、私のような血の気の多いやつはすぐケンカ腰になってしまい、心理的な心の生傷が絶えない(笑)。それでも、そうやって生きていく。
世界の主人公は「私」だけれど、社会は「私たち」だけで成り立つものではない。在日という立場は私にとってとても大事だけど、それを超えたあらゆるマイノリティの立場に立つという、そういう契場を作りたい。
以上、とりとめなくこのかん浮かんでいたことをちょっと書いてみた。