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【IBの課題から考える】古典作品を学ぶ意義

2年ほど前に国語総合の課題として書いた「言葉と文化」のレポートです。

課題:日本の古典作品を読み味わったり、古語の使用例について考えたりすることにはどのような意義があると考えられるか。

日本の古典作品を読み味わったり、古語の使用例について考えたりすることには、新しい日本や世界の文化を作っていく上で、必要なものを学ぶことができるという意義があると考える。

今昔を問わず、日本の文学には、全体に統一性(歴史的一貫性)が著しいという特徴がある。これは、中国では新しい文化を生み出すときに「旧を新に換えようとする」ため、旧体系か新体系どちらか一方が破れなければいけないという形式になってしまうのに対して、日本は「旧に新を加えようとする」のでこのような問題が起こらないからである。旧と新が全く別物ではなく、旧の上に新が成り立っているため、全体として一貫性が見られるということだ。新しいものを生み出す際には、旧式の形(考え方や感性、感受性)を理解している必要がある。現状だけを知っていてもなにを付け加えるべきか、どこをどのように変えて行きたいのかがわからず、結局何も生み出せないからだ。

例えば、本居宣長も日本の古典作品の研究を通して国学を学び、『古事記伝』という書物や、「もののあはれ」という新しい概念を生み出した。これは、宣長は『古事記』などの古典作品を通して、儒教・仏教が日本に影響を与える前の日本人独自の精神や文化を理解したうえで、それに通じる思想や感性を表す言葉を生み出したという一例である。

また、近年若者たちが、感動したときや心が動かされた時に多用している言葉に「エモい」というものがある。一説によると、その語源には英語の「emotional」という単語の他に、「なんとも言い表せない」という意味を持つ古語の「えもいわれぬ」というものがあるそうだ。「あはれ」や「をかし」などの、「なんとも言い表せないもの、心動かされたもの」を表す言葉が古くから多数あることからもわかるように、日本には一言には言い表せないものを表す言葉を作ろうとする考え方や文化があるのではないかと考えられる。

よって、「エモい」という言葉は「えもいわれぬ」という古語が含む意味や、日本人のそれらの考え方を引き継ぎつつ、現代の若者たち仕様としてさらに意味が加えられたり、三文字の短い単語になっていることは、旧に新が加わった形で新しい言葉が生み出されている例だといえる。 

このように日本の古典作品を学ぶことには、これからの日本の文化において新しいものを生み出す基盤を作ることができるという意義があると私は考える。

参考文献
加藤周一.(1999).日本文学序説 上.筑摩書房
前田雅之. (2018). なぜ古典を勉強するのか: 近代を古典で読み解くために. 文学通信.



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