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自分のこと徒然その5-それでも音楽は私にまとわりついてきましたー

 はい、こんばんは、おひさしぶりです~。 

 今週はころころお天気が変わる毎日でしたね。私は庭仕事に精を出した日々でした。
 世間はコロナ一色で、疲れや不安、いらいらが溜まってきちゃってる人も
おられるでしょうか。

 私もちょっと家の周りばかりで過ごすことに飽きてきちゃったので、きょうは海に行っってきちゃいました。
 いつもなら波間にサーファーが見える海だけど、きょうはランニングのおじさん一人にしか会いませんでした。
 風が強かったけど、心地良い太陽の光と潮風の香りを感じ、砂浜でしばし波の音を聞き、天の父さんの恵みを覚えてお祈りしながら、気持ちよく歩いて来ました。

 さて、続きを思い起こしながら、書いていきたいと思います・・・。


 そんなこんなで、音楽との関係はいびつで、距離感も掴めないまま、年月は過ぎていったのだが、そんな私は高校2年の時にクリスチャンになり、洗礼を受ける。
 これについてはまた、別記事で詳しく書きたいと思っているが、とりあえず、クリスチャンというのは音楽と切り離せない。実によく歌い、演奏する人種だ。「讃美歌」というのを聴いたことのある方も少なくないだろう。

 オーソドックスな教会には、オルガンがあって、聖歌隊があって、みんな製本された黒っぽい表紙の讃美歌をめいめいが手に持って歌っている、そんなイメージを持っている方も多いと思う。映画なんかでもけっこう出てくるしね。

 母や、近所に住んでた従兄妹たちの家族がクリスチャンだったこともあり、実は私も物心ついたころから教会学校に通っていた。プロテスタント教会である。そしてこの教会も基本的なスタイルとして、だいたい上に書いたような感じではあった。

 でも、世の中でフォークソングやニューミュージックがはやるようになった流れもあってだろう、キリスト教会でも若者たちを中心に、ギターを弾きながらポピュラーっぽい讃美歌を歌うことが増えていた。

 それに加えて、私は地域にある教会を超えた、同世代の者たちが集まる(高校生世代、大学生世代など)グループにも参加していて、そこでは更に新しめの賛美の歌を歌うことが多かった。

 一緒に、聖書を読んだり、聖書からの話を聞いたり、賛美を歌ったりする集会では、時々「特別賛美」というものがあった。集まりでは、基本的には参加者全員で声を合わせて賛美を歌うのだが、時に楽器や歌に馴染みのあるメンバーが前に出て、ソロやコーラスを、ギターや、場合によってはピアノ、バンド演奏などで歌うのだ。

 そんな時、私の心はなぜかざわつく。そして心の中には批評家精神があふれかえっていて、「今の、音程が不安定だったな」とか、「声域が合ってない歌選んじゃって、聴きづらいな」とか、また、心の中なのに「更に低い、小さな声で」なイメージで「私のほうが上手いんちゃう?」とか思っていた。

 高校では、「流れでなんとなくそうしたほうがよさそうに思ったから」と自分の中で言い訳して、学園祭の時に視聴覚教室で行われる軽音楽コンサートにエントリーして、出たことはあった。「別にやりたくてやってるわけでもないし」と、勝手に自分で自分に言い聞かせながらやってるので、あまり面白くも楽しくもない。無駄なエネルギーの使い方をしたものだと、今なら思える。当時はそんな自分の、複雑な心理を認識する由もなかった。

 大学生の時には、クリスチャンのサークルに入っていた。長期休みにはよくキャンプが開催される。ある夏のキャンプでのこと、他大学の先輩と同級生の仲間が、「俺たち、特賛(特別賛美)するんやけど、おまえも一緒に歌ってくれ。明日の夜の集会までにこれ、覚えといてや」とカセットテープを渡された。今思えば幸いなことに、選択の余地のない勢いのある依頼だった。そこで、合間合間を見つけては当時流行りの「ウォークマン」で聴いて耳コピし、無事に歌ったのはいい思い出だ。そんな時、心の中の小さな声は「私、やっぱり音楽とか、賛美とか好きなんかな」と呟く。そしてもっと心の奥底には「こういうの、もっとやりたいのに・・」という声ならぬ声があったことに、のちになって気づくのだ。

 こうして、音楽とは相変わらず曖昧な感じのまま、私の「青春」と呼べる季節は過ぎてしまった。

 その後私は、大学卒業と同時に結婚し、同時に東京で働き始めた。何もかもが初めてだらけで、まごまごしてるうちに、主人の海外転勤が決まり、長男が生まれ、2年間を海外で過ごし、その2年の間に、夫が「牧師になるように神に導かれてる」と確信し、帰国して半年後に、牧師や宣教師などを養成する神学校に入学、その家族寮で3年間を過ごし、その間に更に2人の子どもを授かった。何とも目まぐるしい日々だったと思う。

 そして、この神学校時代に、自分の内側に存在する願望に、もう少し具体的に気づくようになる。

 夫の通っていた神学校は、同じキャンパス内に4年制の神学大学が併設されていたので、若い学生たちが活発に活動していた。そして、課外活動的に、学生が企画した、賛美を中心としたコンサートっぽい集会がよく開催されていた。

 私は、これに参加するのがとても楽しみだった。自分より若い学生たちと大きな声で、時に拍手をしたり、手を上げたりして、大好きな神様を賛美することは、大きな喜びだった。時に子どもたちを連れて、時に夫に子どもたちを預かってもらって、よく参加した。

 でも、相変わらず、前に立ってマイクを持って全体のリードして歌う若者たちを見ていると、どこか心の中がざわついてくる。このころには、以前よりもう少し明確に「私も前で歌いたい、思い切り賛美したい」と、自分の思いを認め始めていたようには思う。認めた上で「でも、みんなやりたいんだから、自分がやりたがるのはただのわがままだよね。特別に導かれた人でないと、あのポジションにはつけないんだよね、きっと。」と言い聞かせてあきらめていた。

 そんな私は、のちに「世の中は、前に立ってマイクを持って歌いたい、と思う人ばかりで満ちているわけではない。むしろ頼まれてもそれはご免こうむりたい、と思う人もいるのだ」ということを知るに至るのだ・・・。

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