2022年坊っちゃん文学賞落選小説「ナツキ」
「ごめん、私たちもう別れよう」
まただ。 これでもう何度目になるだろう。 言われ慣れているので驚かなかった。
「分かった、今までありがとう」
そう言って彼女に背を向け、僕の恋はまたしても終わった。
夏に生きると書いてナツキと読む僕は、夏に生きられない。
もう十年ほど前からパニック障害を患っており、気温が高くなる5月から9月頃までは、ほとんど死んでいるも同然なのだ。
気温や湿度の高い場所にいると、動悸や息苦しさ、吐き気におそわれ、いてもたってもいられなくなる。
一時的に涼しい場所に逃げ込んでも駄目なのだ。
家に帰らないと不安でたまらなくて、少し休んだら家へすぐに向かわずにはいられない。
家が見えてくると安心して症状は少し治まる。そして玄関を開けるなり、僕は泣くのだ。
情けなくて。悔しくて。
毎日何も変わらない。明日もまた書店の短時間バイトに行くだけ。それも10月から4月までの期間限定。
就職も恋愛もままならない僕に、何の未来があるというのか。
何もない。あるのは絶望だけ。ただ死んでないだけだ。
「何でこんな風になったんだろうね」
女手一つで育ててくれた母が言う。
そんなこと知らない。僕が一番聞きたかった。
父は僕が幼い頃に事故で亡くなっていた。
酒ばかり呑んで口の悪い父だったが、冗談ばかり言う楽しい人だったことを、朧気ながら覚えている。
ある土砂降りの日、いつものようにバイトからの帰り道で、ふとペットショップに目を留めた。
動物でも飼ったら、生きる楽しさが見出せるかもしれないと思い、何気なく入ってみた。
店内を一通り歩いて見て回ると、ある一匹のハムスターと目が合った。
目つきの鋭い、しかし真っ白な綺麗な毛並をしていた。
するとそいつがこう言ったのだ。
『おい、お前の病気、オレが吸い取ってやるぜ』
僕は耳を疑ったが、確かにこのハムスターが喋ったのだ。
『騙されたと思ってオレをお前んちに連れてってくれ。今ならセール中で500円ポッキリ!』
やけに安売りされているのには、何か訳があるに違いないが、気付くと僕は店員さんに声をかけ、レジでお金を払っていた。
母に見つからないように、僕は静かに自分の部屋へ急いだ。
シュレッダーにかけられた細かい新聞紙の敷き詰められた、小さな段ボールケースを開けると、奴はゴロンと横になっていた。
「キミはなぜ喋れるの?僕の病気のことを知っているのはどうして?」
僕が聞くと、奴は面倒くさそうにこう言った。
『あぁ?事情があってなぁ、細かいことは話せないんだけど、とにかく喋れるようにしてもらったんだよ。あ、そうだ。いいもん見せてやるよ』
奴は、新聞紙の上に山盛りに置いてあるヒマワリの種を一粒小脇に抱えると、
『スクールウォーズ!』
と叫んだ。
この古臭いギャグ。
幼い頃に散々父が言っていて、僕の大好きだった、くだらなくも懐かしいギャグだった。
「まさか、親父なのか?」
『やっと気付いたか!お前が毎日辛気臭い顔してるからよぉ、一日だけこの世に戻してもらったんだよ。儀式の途中で酒呑んじゃったから、人間じゃなくてハムスターになったんだけどな。アッハッハ!』
信じられなかった。
でも死んだ父に会えるなんて、たとえハムスターだったとしとても、僕は嬉しかった。気付いたら涙が頬を伝っていた。ここ数年涙もろくて仕方ないのだ。
「本当に親父なのか?僕はもう生きていく自信がないんだ。かといって死ぬ勇気もない。頼む、一緒にそっちの世界へ連れて行ってくれ」
僕は涙ながらに懇願した。
『あぁん?何言ってんだよ。何のためにこんなプリプリのケツしたハムスターになってまでお前に会いに来たと思う。言ったろ?お前の病気を吸い取ってやるって。待ってろ!』
そう言うと父は僕の頭の上によじ登り、そのプリプリのケツを僕のつむじに押しつけた。
『ビンゴ!』
父はそうして僕のつむじから何かを吸い上げている。頭が何だか痺れるような感覚に襲われた。
『これで大丈夫だ。9割はな』
そう言って僕の手の中に降りてきた父のケツは、更にプリプリに膨れ上がっていた。
一体何を吸い上げたんだろう。凝視せずにはいられなかった。
『あとの1割はな、お前の手で吸い上げるしかない。小説を書け。書いて昇華しろ。辛い出来事も全て糧にしてしまえ。お前にしか書けないものが必ずあるはずだ』
「しょ、しょうせつ?!」
僕の声はうわずった。
『そういえば、坊っちゃん文学賞とかいうものがあったぞ。それに応募して賞を獲れ。そうすればお前は治る!』
父はヒマワリの種を囓りながら言った。
『とりあえず生中ひとつ!』
僕に小説なんか書けるのだろうか。確かに読むのは好きだけど、書くなんて・・・。
でも父の言うとおり本当に治るのなら、試してみる価値はあるのかもしれない。
「僕に出来るかな?」
『あったりめぇよ!なんたってオレの息子だからな。それに夏生って名前はオレがつけたんだよ。夏でも元気でいてもらいてえからな』
父は笑っているように見えた。
『おっと、そろそろ時間だ。じゃあな夏生。審査員の先生のところにもちょっくら頼みに行ってくるわ』
そう言って父は窓から外に飛び出すと、それっきり戻っては来なかった。
小説か。
生きる喜びになるかもしれない。
夏生という名を付けてくれた父のためにも。僕の1割を埋めるためにも。
僕は原稿用紙を買いに行くため、自転車にまたがった。
雨はいつの間にかあがっていて、夕暮れの空には、薄く虹が架かり始めていた。
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