「やっさいもっさい」について語る(昭和の頃)
やっさいもっさいは昭和49年に、木更津青年会議所(今のかずさ青年会議所。以下JC)が「みんなおとなりどうしです」を合言葉に始めたイベント。
当時、新日本製鐵君津製鐵所ができて、急に増えてきた「新住民」と地元民との交流の場を作ろう、ということで始めたそうな。
私の父がやっさいもっさいの立ち上げの時にJCにいたので、子供の頃から やっさいもっさい については色々と聞かされていた。
毎年お盆にやる「木更津港まつり」の中のイベントの一つとして「やっさいもっさい踊り大会」をやりたい、というJCからの申し出に、いかに市役所が面倒くさそうにしていたかとかw、警察が全然、道路使用許可を出してくれそうになく、最終的に議員を使ったとかww
断片的にしか聞いていないし、だいたいそういう話をするときの父は酔っぱらっているから、どこまで本当のことを言っているのかはわからないけれど、最初はあまり歓迎されていなかったのだけは伝わってきた。
参加連を集めるのもそれなりに大変だったようで、JCのメンバーは自分の地元の自治会や企業に営業をかけまくり、踊りの指導にも駆け回っていたらしい。
最初の振付は結構かっこよくって、回転したりして派手だったらしいのだけれど、婦人会に教えに行ったら「こんな難しいのできない」と言われて、今の簡単な(父親いわく「ダサい」)踊りになったとのことだ。
で、なんとなく検索していたら「鉄骨ダッシュ」のページが残っていて、そこに当初の振付と思しきものが載っていた。
よくわかんないけど、今のとは違って、確かになんか回っていそうだ…
あと、昔話でよく聞いたのは、JCがやっている時は、なんと暴走族も参加していたということw
てゆーか、やっさいもっさいなんかに参加申込するなよ、暴走族w
さすがに「木更津サリー」とか「房総連合」そのままじゃなくて、連の名前だけは変えてもらったそうだけど。
連長役を呼び出して「お前が連長なんだから、ちゃんとお前が連をまとめるんだ。任せたぞ」って真面目に言うと、父いわく、当時の不良は結構きちんとやってくれたらしい。
「たぶん、あの連中、大人から『お前に任せたぞ』なんて言われたことなかったんじゃないのかなぁ」…なんて父親が言っていたけど、どうだったんだろう。
自分は小学生の頃に町内会の連で何回か参加していた。
連の数も今より全然多くて、全国ネットのテレビ番組に出ているようなタレントが来て司会をしていた。
やっさいもっさいは子供ごころに他の盆踊りの曲よりもテンポがよく、かけ声もあって、やっていて楽しかった。何ならドラえもん音頭やアラレちゃん音頭よりも全然楽しかった。
まぁ子供的には夜に友達と一緒に外に出ることができて、お菓子やジュースをもらえるというだけでも充分に盛り上がるのだが。
酔っ払った近所のおじさんがご陽気に小さかった私の妹を肩車して「やっさいもっさい やっさいもっさい!」と叫んで踊っていたのは面白かったけど、今思うと落ちなくてよかったなw
あとは小学校の運動会での鼓笛隊で、なぜか毎年やっさいもっさいをやっていたので、踊りだけじゃなく演奏もできる。
中学生以降は自分が踊ることはなかったけれど、毎年友達と、富士見通りにたくさん出る屋台で買い物をしながら、やっさいもっさいを眺めたりはしていたし、駅前東口のダイエーで夏になると「やっさいもっさい」をエンドレスで店内に流していたりしていたので、完璧に染みついているのだけれど、同じ年代の木更津市内の育ちでも、やっさいもっさいを知らない人がいる、と知るのは地元に就職してからのことである。
たぶん続くw→続けた↓
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