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18.10.28.18:34

溢れている、という程でもないが、量は多い。
普段に比べると確実にたくさんの人がこの街に訪れる。

切りっぱなしのグレーのLevisから紫のローカットのコンバースを覗かせて、整髪料で整えられたうねるような黒い短髪の下にサングラスを拵えた男性。レース地の薄い真っ黒なワンピースから覗いた真っ白い足は、一定の歩幅で、彼との距離を保ちながら歩く。
これを離してしまえばもう二度と会えないかのようにベッタリと腕を組んで歩くカップルもいれば、何もかもを初めて体験するような、四方に動き回る落ち着かない眼差しの幼い少年を乗せて自転車を漕ぐ女性もいる。

それぞれがそれぞれの目的で、そしてそれらの目的を楽しみながら、それぞれの人生の小さな余白を黒く塗り潰すために、たくさんの人がこの街を訪れる。休日の中目黒はそんな街だ。

そして自分はいつも通りの時間に電車に揺られ、その街に辿り着き、駅から5分もかからない小さな店の中のカウンターに座り、そんな街の様子を眺める。ここに自分がいることが今の自分の目的で、自分の人生の小さな余白を黒く塗り潰すための手段である。そんなことに気付いたのはごく最近のことだ。

ここに初めて来た時に比べると、外はだいぶ肌寒くなった。風が徐々に冷たくなると、日が落ちるのも早くなる。もしかしたらそんなことに気付いたのさえ、ごく最近のことかもしれない。

そして辺りが少し暗くなりだすと、自分はカウンターを離れ近くの自動販売機に缶コーヒーを買いに行く。缶コーヒーの、いかにも大量生産しました、みたいな、殺菌加工された味がなんとなく自分は好きで、なんとなくそれが自分にも合ってる気がする。でもそんなのは、本当に些細な、なんとなくの後付けの理由でそれが近くにあるから自分は自動販売機に向かうに他ならない。
もっと言えば、缶コーヒーを片手に煙をくゆらす煙草の銘柄も、(確かに一時期たくさんの煙草の色んな味を吸ってみたりもしたけど)一番近くにいた友達が吸っていた銘柄で、それが馴染み深いものだっただけだ。今もなんとなくその味が落ち着く気がする。

店先で煙草を吸っているとよく人に道をきかれることがある。その度に自分は、なんでこの街のそれっぽい店は、それっぽい場所に、こっそりと身を隠すように、誰にも気づかれないように、それでいてそれが逆説的に皆んなに知られるための手段であるかのようにそこにあるのだろうと、少し煩わしく思う。

そんなわけで今日道をきかれたのは、1組のカップルだった。2人とも20代半ばか後半くらいで、女性の方は黄色いチェックシャツをベストにリメイクしたものを羽織っていて、反対に男性は黒いダウンベストの下に黄色いチェックシャツを羽織っている。いわゆるお揃いコーデとかいうやつで、おいおいマジかよ、どんなセンスだよ、と内心毒づきながら、自分は彼らの目的地を丁寧に指差した。

彼らの目的地は他ならない隣の建物の3階にあった。そのお店の店員さんがよく小物をリースに来たりもするから、自分はその店がだいたいどのような店かも知っている。
そこは女性もののヒールだったりドレスだったりがセレクトされて並べられた小さいお店で、セレクトされたアイテムは全てヴィンテージものらしく、まるで西洋のお伽話のお姫様が身につけるようなものが扱われていたりする。
リースに来る女性の店員さんも、いつもパニエで強調されたようなふわりとしたスカートに細いトップスをあわせて短い金髪をふりかざしているから、本当にそんな雰囲気なのだろう。
そんなことを考えていると、さっきのカップルがそのお店に訪れたい気持ちも分からないこともないような気がして、その2人が建物に入ってく様子を見ながら、自分は無意識に頷いてしまった。

彼らを見送った後、自分はそのカップルのことを考えた。あの黄色いチェックシャツのお揃いコーデでプリクラを撮ったりして、いや折角この街に来ているのだから川沿いで写真を撮ったりして、夕飯には少し値のはるイタリアンでペペロンチーノやゴルゴンゾーラのピザをつついたりして、勿論あの店の写真も撮ったりして、それらをまとめて今晩インスタグラムにあげたりするのかな。
そういえば、あの店員さんは、駅や街でも、たまに見かけるたびにはっきりと彼女とわかるし、いつも独特の格好をしている。化粧品によって毛穴の見えないほど白く塗られた、決して綺麗とはいえないその顔立ちすらも簡単に思い出す事が出来る。果たして、彼女の歳は幾つで、どこからやってきて、なぜそのお店で働くことにしたのだろう。
何より、誰がどうみても一目で分かるような、あのカップルも、あの店員さんも、みんな今は、誰もが少し煩わしさを抱えて辿り着くことになるあのお店にいる。それが少し可笑しいことのように思えて、自分は笑ってしまいそうになった。

だからといってそれは嘲笑の類では決してない。
むしろ、奇跡というものが本当に起こり得ることを実感したときだったり、例えば、最近知り合ったどこか遠い街のバーのオーナーが自分の地元の旧友のことを知っていたときのような、驚きにも似た笑いだった。

カウンターで店の雑務を済ませて、ふと顔を上げると、外はさっきよりまた少し暗くなっていた。時間をみると午後5時くらいだったから、徐々に秋も終わりを告げようとしているんだな、と思う。そういえば最近以前にも増して風が冷たい気がする。
日が落ちるのが早くなると風が冷たくなる。風が冷たくなるから日が落ちるのも早くなるのかもしれない。それと同時に、そんなことに気づいたのは、最近だったことも思い出した。

むしろ、そんなことに気づけたことが少し嬉しいことのような気もしたのだ。

だって、自分は東京に来た時にはそんなことすら気づいていなかったのだから。もっといえば、このお店に来た数ヶ月前ですら、自分はそれに気づいていなかった。

あの時の自分は、何者かになることが絶対的な正解だと信じて疑わなかった。そしてそのための手段も、自分にとっては一つしかないと思っていた。

だがそれは、たまたま近くに自販機があるから缶コーヒーを買いに行くことや、今吸っている煙草の銘柄はたまたま友人が吸っていたものだからそれを選んだこととなんら変わりない。
当たり前だけど、正解はたくさんあって、どれを選んでも正解なのだ。

なら本当にどれを選んでもそれが正解なのだけれど、そしてどれも選ばないことすら正解なのだけれど、自分がどんな選択をしているかということから目を背けること、それが唯一の不正解である。

逃げるなら何から逃げてるかを知らなければならないし、今自分が逃げているということを自覚しなければならない。
戦うなら戦い切らなければならない。負けたのなら負けを認めなければならない。勝ったのなら喜んでもいいだろう。勝者が喜べるのは自分が戦いに勝ったことを知っているからである。

徐々に風が冷たくなり日が落ちるのが早くなって冬が訪れるとして、そのようなことは誰の人生にでも起こり得る普遍的な事実だ。
様々な形で訪れたその冬をどう過ごすのかはそれぞれが決めればいい。

ただ、自分は今までなんとなく日が落ちていることを自覚しながらも、それを見ないようにしてきた。風が徐々に冷たくなっていることを受け入れないようにしてきた。受け入れることが純粋に怖かったのだろう。それはいつかの自分を否定することになると勘違いすらしていた。もっといえばあの時の自分が求めていた姿と今の自分の姿が対照的だったからだ。

もう既に冬になっているのにも関わらず、まだ冬は来てすらない、と喚いて、じゃあ今は秋なのか、と問われれば、秋でもない、と叫んだ。
じゃあお前は何なのだという問いには、答えることすら出来なかった。
それは自分と向き合うことを避けて、自分がどんな状況にあるかということを受け入れようとしていなかったからだ。自分がどんな人間で、何が出来て、何が出来ないか、己というものの分際としっかり向き合ってこなかった。

そうやってあやふやにしてきた沢山のことがあって、あやふやにされてきた沢山のものがある。
逃げる場所すらなくなり、逃げ切ることすらできない状況になって、ようやく自分はそのことに気付いた。いや、気づいていることを受け入れはじめた。

確かに答えはそんなにすぐに出るものでもないから、まずは自分が選んだものに責任を持つことにした。自分があやふやにしたものを、そのあやふやから解放するために向き合うことにした。

ようやくそれに気づいたとき、確かに自分はこの街にいてはいけない気がした。
誰もが自ら選んだ結果を持ち込むことのできるこの街では、そんな結果を選ぶことからすら目を背けている自分にはここにいる資格などないと思いひどく落ち込んだりもした。

だが今、自分はこうしてここにいる。
誰に言われたのでもなく、誰かのためでもなく、何かになるためでもない。強いて言うなら、自分が自分であり続けるためにここにいるのだと思う。そう決めたのだからここにいられるのだ。

あの店員さんも、あのカップルも、あのお店も、おそらくそうだ。それぞれがそれぞれでそれぞれのその場所を選んだがためにそこにいる。
それは誰かが簡単に嘲笑していいものでもないし、簡単に介入できるものでもない。
ただ、道をきかれたから教えて、彼らがそこに向かうだけのことだ。そして自分はそんな彼らのことをなんとなく考えたくて考えてみるだけのことだ。もし、彼らや、あの店員さんのことや、あのお店について、自分がもっと知りたければ、その時は直接色々質問してみるのもいい。

溢れている、という程でもないが、量は多い。
普段に比べると確実にたくさんの人がこの街に訪れる。あの頃に比べると自分はたくさんのものをあやふやにした。

切りっぱなしのグレーのLevisや紫のローカットのコンバースをおそらく自信を持ってあの男性が選ぶように、これから自分は自信を持ってあやふやにしたものと向き合っていくだろう。
そして何よりあやふやにすべきものをちゃんとあやふやにすることができるだろう。
だから自分は、あのカップルのインスタグラムを見つけようとはしないし、あの店員さんの年齢もきかないし、あのお店がなぜそこにあるのかも考えないことにする。

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