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忙しさにかまけてなまけた結果
家族の体調が振るわないと、私自身の気持ちも落ち込んでしまうものです。
年明けと最近の猫ちゃんのことや、2月頃の母の流行り病り患とか。
落ち込むのはなんでかなぁと改めて自分に問いかけると
「どうにかしたいものの、どうすることもできない」ということにプチ無力感なんだなということが解のひとつとして挙がってきました。
自分の範疇ではないことはよぉーくわかっているつもりなのですが
膀胱の塩梅がよろしくなく、痛みから食欲も減退している猫ちゃんに
治療ができるわけではないし。
母の流行り病の際も、けほけほ咳をしている音は聞こえ、さぞかし喉が痛いであろうだろうなーでも何もできないし。と
結局「自分の範疇ではないことに」嘆いてるんだなぁ。と
そういう自分がいることを確認した数年前、おススメされたストア哲学の本や「ニーバーの祈り」を読んだり自分に落とし込むことを定期的にやっているのですが、いざとなるとどうもうまいこと切り離せません。
自分の範疇ではないとしていることが実は「範疇内」で
できることを放棄しているのではないか?とか
主観で線引きしているんじゃないか?とか
自分の中で可能性をもりもり引き出してしまいます。
自分でコントロールできることと、出来ないことを分別する賢さ…
ああ、それがまず私は甘いのか。と気が付きます。
病気の治療はできない、と猫ちゃんの腎臓の数値が振るわなくなった際にもnoteに書きましたがそれは事実です。これは私ができないこと、範疇外。
ただ腎臓の症状を、緩やかにするための食事を厳選すること
療養食はおいしくないので、ちょっと工夫して食べてもらうことは私が出来ること。コントロールできることです。
母の流行り病も治療はできません。
ただ、抵抗力をつけるために食事を作ってお部屋の前に置いたり水分を調達することは範疇内。(これは今年2月に実証済み)
と、落ち着いて書いてみると分別がつけやすいのか。と今発覚。
この「無力感」は頭の中でこねくり回している時に発生する確率が高いのです。考えることは悪いことではないのですが、どうしても「そっち寄り(最悪の想定を反芻→絶望→焦り→できることない→無力感)」のパターンにハマることばかり。
わかりました。そうなることが予想されたらまず書くことにします。
最近そういえば忙しさにかまけて毎日日記を書いていませんでした。
もういいかな、大丈夫と勝手に判断してしまったんですよね。
その判断が間違いのもとなんだなー。
というわけで反芻ストップ、分別する賢さを持ちたいがために
書き記す月間スタートを宣言!
勝手にやめちゃったのはよろしくなかったなぁ。でも気が付いたからいいってことにします。