ひろゆきさんを信じすぎることの危険性
お疲れ様です。サラダです。
ひろゆきさんの動画を見て、ひろゆきさんの言っていることを正解だと信じ過ぎることは危険だな、と感じたのでそんなお話をしてみます。
これは僕の実体験をもとに話していきます。
ひろゆきさんの意見には中毒性がある
ひろゆきさんは論理的、合理的な意見をズバッと言ってきます。
これは他の人が感情というフィルターを通して物事を見てしまうのに対して、ひろゆきさんは感情のフィルターを外し物事を見るすべに長けているからだと思います。オッカムの剃刀を常に発動できるって感じですね。
なので答えまでの最短ルートを導くのがとても速く、ほぼ即答で質問に答えることができるわけです。
この「即答」をひろゆきさんならではの「余裕」と「自信」でコーティングされると、ひろゆきさんの答えはあたかも「正しい」ように見えます。
常に正しいことを教えられると、ある種の快感が宿ってきます。
僕はこれは優越感に近いものだと感じました。
「自分は社会の正解を知っている。正解を知る自分は他の人より賢い人間になっている」
とても痛々しい考えです。
ここまでひどくはないものの、僕にその兆候はあったのかなあと思います。
人は感情で考え、行動します。
そんな人たちを論理的に見ることで、少し下に見ていたのかもしれません。
気付けば家族や友達と社会について話をするとき、「ひろゆきはこう言ってたよ」とさも正解を知っているかのように振舞っていました。
なんとなく口調がひろゆきさんっぽくなったり、ジェスチャーが大きくなったり、、、
意見をはっきり言えるようにはなりましたが、その分態度はどんどん尊大になっていったように思います。
自分の意見がない人にとって、ひろゆきさんの意見は正解として受け入れやすく、ゆえに染まりやすい傾向があります。
ひろゆきさんの意見=正解ではない
大前提として、ひろゆきさんの意見が間違っていることもあります。
配信(録画)を見ているとわかりますが、本人も「酔っぱらったおっさんのしょうもない話」と言っているくらいです。
曖昧な情報源などの場合、そもそもの情報に間違いがあったりすることもあるでしょう。というかありました。
ですが、「へえ、そうなんだ」と深く考えず鵜呑みにする人は意外と多いんじゃないでしょうか。僕はそうでした。
やっぱり人間は楽をしたがります。
たとえば社会、政治、経済などスケールの大きい話において、自分の頭で何が正解で何が間違っているかを導き出すのはかなりエネルギーがいります。
まずデータを収集して、そこから情報を吟味する、、
これは相当時間がかかりますし、そこから得た答えが正しいかどうか自分にはわかりません。
だったら最初から正解率の高いひろゆきさんに乗っておく方が楽です。
こうして自分の頭で考えることをやめてしまうと、基本的にひろゆきさんは正しいというスタンスでものを見てしまいます。
Twitterでひろゆきさんが誰かと言い合いをしているときに「論破論破」と囃し立てる人、ひろゆきさんが討論している動画のコメント欄に相手を嘲笑するようなコメントをする人は誰もが見たことあると思います。
あの人たちは自分で考えることをやめてしまい、とりあえずひろゆきさんに乗ることで、正解者気分という快楽に浸かっているように見えます。
そもそも相手を論破した=正解にはならないです。
仮に論破されたとしても、それは相手が論理的な考えをしていなかっただけで、ひろゆきさんより立場が下になるわけではありません。
論破された人よりも、過度に煽る人や嘲笑する人の方がよっぽど悪く見えやすいということは忘れないように心に留めておきたいですね。
態度はひげおやじさんに分あり
まとめますと、
ひろゆきさんの意見や考え方は魅力的だけど危険性がある
大変でも自分の頭で考えてひろゆきさんの意見は参考程度にしよう
論破された人がいてもその人を見下したり馬鹿にするのはやめよう
というなんとも当たり前のことを長々と言っていたようですね。
文章にしてみると当たり前なんですが、ハマってしまうと自分では気づかないうちに影響されていくので、自分を俯瞰してみることは大切だなと感じます。
あと、大事なことは態度です。
どんなに正当な意見を持っているかより、どんな態度で相手の意見を聞くかの方が大事だと思います。
とくにTwitterにおいて、ひろゆきさんは敢えて相手を煽ったり、嫌味を言ったりとなかなかに辛辣です。
意見が正しいか正しくないか以前に「そういう言い方はよくないよね」となって、本質的な話にならないことも多々あります。
ひろゆきさんの思考をマネしても態度までマネしてはいけないよ、ということです。
ここでちょっと想像してみてください。
思考はひろゆきさんで態度はひげおやじさん、、
これすっごい最強になりませんか?