祖父の死と、ぷにるのぬいぐるみ
祖父
最近、祖父が死んだ。コロナ禍の3年間は厳しい面会制限のため、病院で暮らす祖父と会えずじまいだった。けれども5月6月は制限が緩和され、なんとか死ぬ前に2回お見舞いすることができた。3年ぶりに会った祖父は知らないガリガリのおじいちゃんになっていたが、息も絶え絶えになりながらもわずかに紡ぐ言葉から、ここにいる老人が祖父であることを確信できた。
看護師さんに聞くと、最後に会ったときは呼吸するのがやっとで、とても意思疎通ができる状態ではなかったそうだ。それでも祖父は半開きの口をなんとか動かして何かを伝えてくれようとしていた。結局何か音を発することさえできなかったが、涙を浮かべた祖父の目と目を通わせることができたから、言葉は要らないように思えた。
最後に何を喋ったのかもあまり覚えていない。どれだけ感謝の言葉を伝えられたのかも覚えていない。多分事前に話すと決めていた近況報告だけしてほとんど言うべき言葉は言えていなかったと思う。ただ「また来るよ」とは言えなかったことだけは、はっきりと覚えてる。
次に会った祖父は、もう目を開けることはなかった。浴衣の紐をかたむすびしたり足袋を履かせたりしたが、どうにもこの老人がふくよかでえびすさんのような目をした祖父のイメージとは結びつかなくて、悲しい気持ちにならなかった。最初のお見舞いの時に鼻毛が大量に出ていたのがきっちり処理されていて、それは良かったなとか、手にこんな大きなシミがあるんだなとか、足の裏がぶにぶにで溶ける寸前のスライムみたいだったなとか、そんなことを考えていた。
遺影の写真は、従兄弟が持っていた5年ほど前の元気だった時の写真に決めた。これはいつもの見慣れた祖父だった。ひさしぶりに祖父と会えた気がした。話しかけるのはこっちの方がいい気がした。
棺に祖父の愛用品を入れる役は、自分が担った。みな来賓の人への対応でバタバタだったからだ。本当は1人でやりたくなくて何人かに声を掛けたが、みな忙しく、祖父との最後の特別な時間は自分と葬儀屋の人とだった。祖父が愛用していた帽子は棺の中の祖父とは似つかわしくなかった。これは祖父が作ったんですよと、木製の〇〇を祖父の手のあたりに納めると、葬儀屋さんからすごいですねぇと褒められた。最後の最後に祖父を自慢することができて良かった。じじ褒められて良かったねぇと心の中で話しかけたのが最後の会話となった。
火葬が終わるまでの1時間は親族と色々話した。初めて会う親戚がこんなにいるのかと驚いたが、これも祖父が引き合わせてくれた縁だと思い、大事な時間にした。みな祖父のことを「◯夫ちゃん」と呼んでいるところに、祖父の人柄を感じた。
そんな和気藹々としてるとなりで祖父が骨になっていることを思うと、奇妙な気分になった。骨になった祖父のことを祖父だとは思えなかった。骨は腰か足かそのあたりの比較的太い骨を拾った。思ってた以上に軽くて、脆かった。
ぷにる
さて、新キャラであるジュレちゃんの奇行が話題(かわいい)の『ぷにるはかわいいスライム』ですが、43話の内容はかなり核心に迫ったものだと言えます。
SFみガーーとか人外ガーーとか色々話題に尽きない本作本話ですが、今回は「ぬいぐるみ」に焦点を当てて考えてみます。
まずはじめに最後のコマでキュティちゃんと”会話”をしているコタローに注目してみます。一見「一本その頃……」と呑気なコタローを映しているだけの描写に思えますが、このコマは作品のホビー感を決定づける、極めてアクチュアルなコマです。というのも、コタローがぬいぐるみと話せる人間だというのが重要なのです。
31話で明らかになったとおり、コタローがよくぶにるに言う「お前はスライムだからかわいくねーの」は、女の子のモノが好きなコタローが周りに馬鹿にされずに、ぷにると一緒にいるための口実でした。ぷにるのことをかわいいと認めてしまったら一緒にいる口実がなくなってしまうというのがコタローが頑なである原因でもあり、この作品をラブコメたらしめている所以でもあります。
ただこれは別の観点から見るとなかなか厄介な状況です。かわいいものが好きな男子が、女の子に馬鹿にされないために、自分の好きなかわいいものを「かわいくない」と偽ることで周りに所有を認めさせる、という状況です。
ですから、コタローがぷにるをかわいいと認めることは、ラブコメの成就でもあり、コタローの成長物語でもあるわけです。
しかしここで話をややこしくしているのが、キュティちゃんというキャラクター、そしてそのぬいぐるみです。コタローはキュティちゃんのことを好きでグッズを大量に収集しています。特にキュティちゃんのぬいぐるみはおしゃべりするように普段使いしているほどです。コタローはキュティちゃんには自分を曝け出せますし(君だけだよ/オレのこと/わかってくれるのは)、かわいいねと素直に言うことができます(キュティちゃん/今日もかわいいね)。
なぜコタローはキュティちゃんにかわいいねと本心を言えるのか。それはキュティちゃんがぬいぐるみだからです。キュティちゃんは人間じゃありませんし、スライムでもありません。ここでコタローの面白いところは、ぬいぐるみもスライムもホビーであるのに、扱い方が真逆ということです。ぬいぐるみに対しては素直にかわいいと言え、愛でるのは他に人がいない空間です。一方でスライムに対しては素直になれずかわいいと言えません。そしてそれは外でぷにると一緒にいるためには必要不可欠な条件でした。
それでは一体なぜコタローだけ同じホビーに対してこんなに扱い方が違うのでしょうか。それはコタローがかわいいモノ好きで、ぬいぐるみと喋る人だからです。
しかしこれはコタローがホビーを人間扱いしているということを意味していません。ぬいぐるみを愛好している人はわかると思いますが、ぬいぐるみは人間でなくても意思疎通できているような瞬間があります。少なくとも、他のホビーとは違った、存在を思わすような存在感があることは間違いありません。
男性キャラでこの人間でないものと意思疎通ができる(できるとまではいかなくとも、意思疎通の可能性を信じている)能力を獲得するためには、かわいいものが好きという属性を持つ必要があります。これはスライムを徹底的にホビー扱いするコロコロキッズの難波や、注入前のルンルを徹底的にホビー扱いしていた(加えて、ぷにるをひたすらに子ども扱いしている母性も無関係ではあるまい)きらら先輩と一線を画すところです。
ここまでの話を総合してコタローのキャラ性質をまとめると、「かわいいものが好きだからこそホビーと意思疎通できるが、かわいいスライムと一緒にいるためにはぷにるがかわいいことを認めてはいけない」というややこしさを持っています。さらに現時点では「ぷにるをかわいいと認めることはぷにるをキュティちゃん扱いすることなのか」という問いも建てられます。ここの深掘りはまたいずれ。
ぶにるのぬいぐるみ
話を43話に戻します。ぷにるとぷにるのぬいぐるみの最大の違いは、口の機能があるかどうかです。ぬいぐるみが基本しゃべることができないことは折に触れて書いてきましたが、今回ジュレがぷにるのぬいぐるみに飲み物を飲ませようとしてそれが達成され得ないことを示したのは、明らかに(ジュレの想定するホビーには)口の機能が欠けていることを表現する描写です。
喋ることも飲むこと(飲食)もできないというのが、ジュレのホビー観でした。ジュレが言わんとしたを一文でまとめると「ぷにるは根源的に喋ることも飲むことも叶わないぬいぐるみのようなホビーであって、ゆえにコタローとの関係はごっこ遊びである」です。
一方でぷにるのホビー観はジュレを呆然とさせるほど大きな違いがあります。ぷにるは自分というホビーが人間とか違うことを前提にした上で、人間ではないものにも、男にも女にもなれる可変性こそがスライム(ホビー)の真骨頂であるといいます。
可変性はぬいぐるみのようなホビーには本来備わっておりません。それは素体むき出しのジュレの身体がまさしくです。ここでは身体の変わらなさこそがホビーの宿命ともいえます。特に口が開かないことは、ホビーをホビーたらしめます。
たとえば、ルンルはいのちが宿って喋れるようになったといえど、口は動きません。ルンルがいまだにホビー扱いされているのは、ここに起因するでしょう。
口と目
ここで、ぬいぐるみのようなホビーの身体について、もうすこし踏み込んで考えてみましょう。
ぬいぐるみの口が開かない理由を木下(2020)は、シルエットに閉じ込めるためだといいます(注一)。氏はAI美空ひばりの口内が真っ黒で奇妙に覚えたことを例に挙げ、これはシルエットそのものがあらわになっていることへの違和感だとしました。これに対して、ぬいぐるみの口が開かないのはシルエットを閉じ込めておくためだとしました。
ぷにるがガワを脱いだらのっぺらなスライムであるというギャグ(番外編④)は、43話では深刻なテーゼとなりました(ぷにるは深刻に考えていないようですが)。作中ではこのぷにるの中身を「女の子の『パチモン』」と表現されていましたね。ぷにるは女の子の「パチモン」なのか?あるいは「パチモン」でもいいのか、というのがジュレ編のデカいテーマになるのは間違いありません。
このジュレによるぷにるの中身の暴露は、ぬいぐるみのタブーを侵す行為でした。このぬいぐるみのタブーを破ることができるのは、『ぷにる』がギャグ漫画であることが一因です。同じコロコロ系ギャグ漫画だと、たとえば永井ゆうじ『ペンギンの問題』71話は、主要キャラ(人間を含む)の中身が皆エイリアンのような怪物であったことが明らかにされる衝撃的な回でした。
これは基本1話完結で設定を次号に持ちこさないギャグ漫画のコードが可能にした話だといえます。もちろん『ペン問』の場合はベッカムくんの正体不明さが魅力の一つですので、このような話がギャグとして受け入れられるわけです。ただ『ぷにる』の場合、最初はギャグ漫画のコードで示したぷにるの中身問題を、話の根幹に関わる問題として再提示しました。これは週間コロコロという、子ども向けでありながら大人向けでもある媒体だからこそ可能になったともいえます。
話が少し脱線してしまいましたが、ぬいぐるみの口が開かないのは、中身をなかに閉じ込めるためだという話をしていました。ジュレがぷにるにやった行為は、ぷにるの中身を暴露するというぬいぐるみのタブーを侵した上で、お前はぬいぐるみでしかないと突きつける鬼の所業です。タブーを侵すことができたのは『ぷにる』のギャグ漫画のコードを逆手にとったからであり、これによってぷにるはぬいぐるみでいられなくなるわけですが、同時にお前はぬいぐるみ同然であると突きつけられるのです。
ぬいぐるみの口はぬいぐるみの中身と密接に関係している一方で、ぬいぐるみの目はいったいどのような機能を果たしているのでしょうか。
佐々木(2020)はぬいぐるみは「弱いまなざし」を持っていて、それによって私たちはぬいぐるみの顔を真正面からしげしげと覗き見ることができるといいます(注二)。ぬいぐるみにまなざしはあるけれど、それは微弱である。しかし(だからこそ)まなざしを返すことができるというわけですね。
ぬいぐるみの存在感はこのまなざしに宿っていると考えます。目があるからこそ、対峙できる。どんなときも居てくれて、対峙してくれる。それがぬいぐるみの目なのです。ホビーの命は目にあるといっても過言ではありません。
口の機能はないけれど、弱いまなざしによって独特の存在感を発揮するのがぬいぐるみでした。ゆえにぬいぐるみは意思のないものとして単純に切り捨てられるものではなく、キュティちゃんと喋るコタローのように、意思疎通の可能性を信じる人間もいます。ぷにるはスライムなのでぬいぐるみではなく、可変性を備えているという点で根本的な違いがありますが、両者とも一般的にはホビーであり、ジュレがいうように女の子(人間)のパチモンとみなされます。
今後の『ぷにる』においては、「ぬいぐるみとの違い」という補助線を引いてみると、ジュレ編への理解度が高まるように思います。各章各章尻切れとんぼですが、今回はここで閉じようと思います。
さいごに
亡くなる直前の祖父の目には、ことばが要らないほどに、何かを訴える力があった。この「何か」は「何か」のままで留めさせるのがよいと思うことにした。そういえば、今まで自分はちゃんと祖父の目を見て会話していたのだろうか。あんなに目をまじまじと見つめて話したのは病院が最初で最後だったかもしれない。
写真になった祖父とはまだ会話をできていない。声に出して想いを伝えることもまだしていない。そして写真に向って唱えた、感謝や後悔にどれだけの意味があるのかは正直わからない。だけれども完全に意味のないことだとは思わないし、”そこに祖父がいないわけがない”ような存在感があることもまた確かである。
46話のぷにるが大変なことになっているのに呑気にキュティちゃんとおしゃべりしているコタローの姿を見て、なぜだかかなり元気づけられた。スピリチュアルな次元かもしれないが、色々なことがなんとかなるように思った。
*
今度は「ジュレのハイヒール」について書けたらいいなと思います。こけたりぬいぐるみつぶしたりするためだけじゃないハイヒールのいかんを書くつもりです。
それにしても『ぷにる』はだいぶ画面に手が込められた良い漫画だと思います。今回は思いのまま書いたので論点があっちこっち行っていますが、いろんな切り口で論じられる深みがありますね。
それでは。
(注一)木下知威「勝手に人格を与えるな、シルエットを閉じ込めろ——ぬいぐるみをめぐる知覚の問題」『ユリイカ』2021年1月号 特集=ぬいぐるみの世界、pp181-191
(注二)佐々木雄大「受肉せざるもの——ぬいぐるみの現象学」『ユリイカ』2021年1月号 特集=ぬいぐるみの世界、pp142-150
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